「匠真の父親はね、亡くなった主人の教え子なのよ」

 義信さんの遺影を遠目に見ながら文さんが言った。それから彼女は視線をずらすと、炬燵に横になって寝息をたてている飯村君を優しい瞳で見遣った。
 私はそんな彼を起こさないように気をつけながら彼女の横へと移動する。すると彼女はクスッと笑みを漏らし、「高校生のころもね、こうやってここでよく寝てたのよ」と私にお茶菓子を一つ差し出した。私は浅く頭を下げながら受け取ると、ほんのり甘い香りのするそれを口に運びながら彼女の話に耳を傾けた。

「この子の記憶のことは知ってるよね?」

 彼女はそう前置きをして、ゆっくりと話し出した。

「ちょうど五年くらい前だったかな。初めてここに来たとき、この子はまだ高校生だった。どこにでもいる、普通の高校生。誰が見てもそう思うんだけど、本当はそうじゃない。——中学三年生のときにね、交通事故に遭ったんだって。頭を強く打って三日間くらい意識が戻らなかったみたい。目を覚ましてからはそれまでの記憶がなくなってたそうよ。全部が全部って訳じゃなかったみたいだけど、ほとんど思い出せなくなってたって」

 どうしてだろう。彼女の目から涙が出てきそうに見える。だけどその言葉と心が同じところで繋がっているようには、私には見えなかった。彼女の心はいったいどこにあるのだろう。どこから悲しみを運んできているのだろう。そんな風に思ってしまう自分に私が一番驚いていた。

「匠真の両親はね、この子が過去を思い出せない分、これからはたくさんの人に出会って、たくさんのことを感じて、そうやって生きていってほしいって思ったの。だから匠真が元気になってからは一緒に色んな場所に行って、たくさんの人と関われるように精一杯支援したそうよ。そういう中で、主人のところにもこの子を連れて訪ねてきたの」

 甘いはずのお茶菓子でも拭いきれないお茶の苦味が口の中を覆う。それと比例するように私の心が苦く澱んでいく。見えない彼女の心の所在はどうやっても探すことはできなかった。

「そうだったんですね。前に飯村君から記憶のこと話してもらったとき、私何も言ってあげられなくて。もっと何か、言ってあげられてたら」

「ううん。それは違うよ。匠真はきっと何か言って欲しかった訳じゃない。聞いてほしかったのよ。あなたに、聞いてほしかっただけだと思うよ」

 彼女は優しく微笑みながらそんなことを言ってくれた。気がつくとその目にはもう涙は見えなかった。彼が言っていた『優しくしてくれた人』という言葉が蘇る。この人はきっと本当に彼のことを想っているのだと、そう思った。彼女の心がどこにあって、そこにどれだけの悲しみがあるのかなんて分からない。それでも彼女が飯村匠真という人間にとって大切な人だということはよく分かった。

「明日思い出せなくなるかもしれないから、今この瞬間を大切にしたい——飯村君はそう言ってました。多分私は、そんな彼に憧れてるんだと思います。過去から抜け出せずに生きてる私とは大違いだから」

「琴音ちゃんはどうして過去から抜け出せないの?」

 真っ直ぐに私を見据える彼女の視線に負けそうになりながら、その質問に疑問符を浮かべる。どうして私は過去から抜け出せないのだろう。
 匠真の顔が頭に浮かぶがそれはすぐに朧げになっていった。そこに飯村君の顔が重なり、そのまま塗り変わっていく。二人は一瞬だけ重なったようい見えたけれど、それと同時に影となった匠真は消えていった。
 行かないでと、消えないでと、心が叫ぶ。だけどそれは届かなかった。脳裏に広がる飯村君との出会いが私を困惑させた。

「匠真はね——」

 何も答えない私の代わりに彼女が再び口を動かした。

「思い出せない過去を無理に思い出そうとしたことは一度だってないんだよ。本人がどこまで何を思っているのかは分からないけど、だけどこの子はそうやって今を生きてるのかもしれないね。——自分が感じるままでいいんだよ。思うままに、心が自然と動くままに、琴音ちゃんも生きたらいい」

 すやすやと気持ちよさそうに眠る彼の頭にそっと手を添えながら彼女が言った。