少し歩いていると寒さが一気に押し寄せ、飯村君の勧めで近くにあったチェーン店のカフェに入ることになった。
 土曜の夜の店内は若者で溢れていて、注文を済ませた私たちにはカウンター席しか残されていなかった。仕方なくそこへ向かおうとした時に、ちょうど二人掛けの席が空き、彼は「俺行ってくる」と言って少し駆け足で私に背中を向けた。席を立つカップルに笑顔で会釈をする彼を見ていると、その必死さになぜか少し笑えてしまう。席を死守した彼が嬉しそうにこちらに手招きする姿を見ると、もっと可笑しくなった。そんな私を見た彼が少し訝しそうに眉を顰めたので、私も彼の元へと急ぐ。

 二人掛けの席に座れたのはいいものの、彼を前にすると目が合わせられない私は、下を向いてコーヒーに溶けていく砂糖の様子をじっと眺めていた。こんなことならばカウンター席にしておけば良かったと心の中で思っては、必死にこの席を取ってくれた彼を思い出してまた笑いそうになる。

「浅倉さんには本当に驚かされるなぁ」

 俯く私に彼はいつもの調子で言った。

「そう、なのかな」

 戸惑いながら答えると、「そりゃそうだよ!」と彼は大きな声で言い、カップに口を付けた。

「だって浅倉さん、俺が行くところ行くところに現れるんだもん」

 言われてみたらそうかもしれない。初めて会ったあの日、藤山先生との一件で会い、その後は私のバイト先、そして今日。思い返すと恥ずかしくなり、余計に顔を上げられなくなった。

「あ、でも今日は違ったかも」

 今日?どう言うことだろう。気になって彼の方を見ると、こちらを見て笑っている。なんとなくその笑顔が「やっと目が合った」と言っているように思えた。本当になんとなくだけど。

「今日さぁ、俺説明会で浅倉さん見たよ」

 自分のコーヒーにミルクを注ぎながら彼が言った。私も見たと伝えようかとも思ったけど、あの時間のことはもうあまり思い出したくないのでやめておく。

「君が声かけられてるの見て、それで俺その企業まで行ったんだ。だから今日は偶然じゃなくて、俺の意思で君のいる場所まで行った」

 そう話す彼は少し楽しそうに見える。あの時私が見た彼は、それより前に私のことを見ていたのか。私を、見つけてくれていたんだ。そう思うと、素直に嬉しかった。だから今、彼の目に映る私も楽しそうに見えるだろう。

「実は私も見た。飯村君がそこにいたの。そのまま説明聞いてたよね?」

 ほんの一分前には伝えないつもりだった情報をいとも簡単に口から出したのは、彼の言葉であの時間の価値が変わったからだと思う。少しくらい思い出してもいい過去にはなった気がする。

「うわ、見てたの?なんか恥ずかしいな。説明聞いてみたけど、正直ピンとこなかった。俺にとってはここが地元だし、貢献するにしても他にもいっぱい企業はあるだろうしね。——あ、そうだ。浅倉さんは地元どこ?」

『ここが地元』
 その言葉だけが私の心臓を抉るように反芻した。分かっていたことなのに、どうしてこんなにも胸が痛いのだろう。目の前にいる彼はここでどんな思い出を作ってきたのだろう。どんな子ども時代を過ごしてきたのだろう。私の知らない彼が突然現れて、私の視界を遮った。

「私は長野なんだ。でも、帰るつもりはないかな」

「なんで?」と聞きたそうな彼の瞳に私の顔が映り込み、咄嗟に目を伏せてしまった。聞かないでという私の思いが彼に伝わったのかは分からないけど、彼は特に何も聞いてこなかった。彼のその優しい選択にありがとうと言う代わりに、別の質問で私も口を動かした。

「飯村君はさ、どんな子どもだった?」

 私の問いかけに彼は一瞬困った表情を作ったが、すぐにいつもの優しい笑顔へと戻り、口を開いた。

「実は俺、子どもの頃の記憶があんまりないんだよね。けどまぁ、活発な子だったって親からは聞いてるよ。浅倉さんは?どんな子だった?」

 あまり記憶がない。そんな重大事実を普通のことのように話す彼に、久しぶりに匠真が重なった。どこか寂しそうな表情をする彼が私の瞳に映った気がしたから。
 本当は記憶のことについて聞きたいけれど、何も聞かないという彼の優しさを感じたばかりだということもあり、私も何も聞かない選択をした。

「うーん……今よりもっと明るかったような気がする」

「気がするって、自分のことなのになんでそんな曖昧なの?やっぱり浅倉さんって不思議」

 そう言ってくすくすと笑う彼に、私は「そうかな」と返して、冷めてきたコーヒーを三口ほど飲んだ。同じようにカップに口をつけた彼も三口ほど飲むと、丁寧にカップを置き、「俺はさ」といつもより真剣な面持ちで切り出した。

「子どもの頃のこと、あんまり思い出せないからさ……だから今を大切にしたいんだ。もしかしたら明日、今日のことだって思い出せなくなるかもしれない。そう思ったら、今しっかり目に、心に、焼き付けておこうって。そうすれば、今俺に関わってくれてる人たちに失礼じゃない気がするから。だってほら、子どもの頃に関わってくれた人のことなんて、俺全然覚えてないんだよ?優しくしてくれた人も、一緒に遊んでくれた人も、喧嘩した人も、嫌いだった人も好きだった人も——大切な人のことだって、今の俺は誰も思い出せないから。なんかその人たちのことを考えたら申し訳なくなるんだ」

 彼の目は真っ直ぐに私を見ていた。その視線に負けそうになったけれど、彼の真剣な眼差しは私に瞬きすら忘れさせた。それでも私の口から彼の心に刺さるような言葉は出てこなくて、「話してくれてありがとう」としか言ってあげられなかった。
 そんな私を見ながら彼はまた優しい目をして、大きく息を吸った。

「俺は大切にしたいって思う。浅倉さんが俺に話しかけてくれたことも、君の幼馴染と名前が同じだったことも、こうやって何度も会ってることも、俺はその全部を大切にしたいんだ。たとえ明日思い出せなくなったとしても、俺は今、君とこうして話してる。この時間を大切にしたい」

 彼の口から紡がれる言葉を一つ一つ丁寧に聞いていると、私たち二人の間にある大きな違いが明確に見えてきた。それを言葉にしていいのか、正直分からなかったけど、気づけば口からこぼれ出ていた。

「飯村君は、()を生きてるんだね。私は——」

 鼻と喉の奥がツンとした。思わず言葉を止めた私に反応した彼は、「君は」と小さな声で言った。続きを言おうとした私を遮るように、彼の口が動く。

「君は、過去(・・)を生きてる?」

 心中を読まれた私の心臓は今日一番の悲鳴を上げた。この音が彼にまで聞こえてしまうのではないかと不安になるくらいドキドキと叫んでいる。私は彼の問いに控えめに頷くことで返事をすると、そのまま俯くように顔を伏せた。

 テーブルと向き合う私の視界に彼の影が映り込むと、頭に微かな温もりを感じた。右手で優しく私の頭を二回叩いた彼は、それから残りのコーヒーを一気に飲み干した。
 私は緊張で震え出した両手をぎゅっと握ってから、カップに手を添えて彼に倣って残りのコーヒーを口にした。底に溜まった砂糖が口内をじわっと甘くして後味が悪かったけれど、そんなことはどうでも良かった。高鳴る心臓と震えを鎮めるのに必死な私をどうか見抜かないでほしいと思う。

 飯村君、私も今、君とこうして話している時間を大切にしたい。そう思ったけど、この気持ちは心の奥にしまっておこう。なんとなく、匠真に申し訳ない気がしたから。


 私をアパートまで送ってくれた彼に、「今日はありがとう」と言うと、

「浅倉さん」

 と私の名前を口にした彼は立ち止まり、またあの真っ直ぐな瞳で私の顔を見つめてきた。

「俺、もっと君のことが知りたい」

 そう言った彼の顔は街灯に照らされて少しだけ眩しかった。時折強く吹く夜風で揺れる彼の前髪の行方を追いながら、今の言葉を反芻すると、私の心にも強い風が吹いた。それは今までずっと我慢していたような新しい風で、やっと解放された今、もう吹くことをやめないだろう。恥ずかしそうに私から目を逸らす彼を見ていると、その風は一層強く感じられる。

 今、前髪を揺らしながら照れる君がいるこの時間を大切にしたい。その風は、私にそう思わせてくれた。

 過去(・・)ではなく、()を生きていけと、私の背中を押してくれた。


 ねぇ、匠真。君は、今を生きていますか?