あの授業以来、飯村君に出会すことはなく私の生活は一気に日常へと戻った。母との電話で多少諦めがついたからなのか、彼のことを考える時間も少しずつ減ってきたように感じる。それでも今、彼を思い出しながら電車に揺られているのは、これから例の説明会へ行くからだ。

 彼に会えるかもしれないと思って申し込んだ今日の説明会は、実際に彼も申し込んだと言っていた。それも、私に会えるかもしれないからという理由でだ。彼にそう告白された時の胸の高鳴りは、今もまだ忘れてはいない。踊るように、弾むように、まるで心臓が宙に浮いたようだった。あの時の気持ちは、飯村君に抱いたものなのか、それとも匠真に抱いたものなのか、考えても答えは出てこなかった。

 開始時間よりも三十分ほど早く到着した私は、受付を済ませてから騒がしい会場に足を踏み入れた。事前の下調べ通りの会場内をざっと歩いてみたけれど、これも下調べ通りで私の目を引くようなものはなかった。

「あなたの地元に貢献しませんか」

 突然どこかで誰かがそう叫んでいるのが聞こえた。その人の声だけが一際目立って大きい訳ではなく、ただ真っ直ぐに私の耳へと飛び込んできたのだ。声の主は二十代だと思われる男性で、笑顔ではあるけれど必死に自分の会社をアピールしているようだった。選挙の演説みたいだなと思いながら見ていると、その人の視界に入り込んでしまった。そうして私を捉えた彼は、その視線を逸らすことなく演説(・・)を続けた。

「どんなに遠く離れていても、人は子どもの頃に過ごした記憶をいつになっても昨日のことのように思い出せるものです。今のあなたを作ってくれた思い出の土地に感謝を込めて、私たちと一緒に働きませんか?」

 気がつくと彼は目の前に立っていた。今度はしっかりと私だけに向けて話し出す。

「君、地元は?」

「な、長野です」

「長野かぁ。いいところだね」

 そう言ってパンフレットを手渡してきた彼にもう先ほどのような必死さは感じられなかった。
 その会社はいくつかの事業所を構えていて、その中には私の地元も入っていた。Uターン就職か……と、ほんの少しだけ想像したが、そんなものはすぐに取り消した。

「もし良かったらこれから説明始まるから聞いていきませんか?」

 あなたを受け入れますよといういかにもな笑顔で優しく誘ってくるその人に、「すみません、大丈夫です」と言って私はその場を去った。
 たった一人の人間にでさえ自分の都合で今のような態度を取ってしまう私なんて、何年かかっても就職できない気がする。先の見えない将来に不安が募るけど、それでもどの企業の説明も聞く気になれなかった。

 悶々とした気持ちでとりあえず会場内をうろついていると、ついに(・・・)飯村君を見つけた。まるで今日の目的がそれだったかのように私の心臓は高鳴った。
 彼がいたのは私が一度立ち止まったあの企業のブースだった。なにやら真剣な表情で見つめる彼に例の男性が声をかけに行くと、彼はそのまますんなりと用意された椅子に腰掛けた。

『俺さ、まだ将来やりたいこととか分かんないんだよね』

 確か彼は以前そんなことを言っていた。それでも今あそこで話を聞く気になっているということは、少なくとも私よりは立派な就活生だ。そんな彼を見て、私も今この会場にいる限りは就活生を演じてやろうという気になった。

 結局私は三つの企業の説明を聞いた。選別の理由は声をかけてきた人の印象が良かったから。どの企業もそれ以外に理由はなかった。地元に貢献しませんかと声をかけてきたあの男性の印象が悪かった訳ではない。あの人が他の企業の人だったら、きっとそこのブースに寄っていたと思う。申し訳ないけど、私には地元に貢献する気がないらしい。
 詳しく説明を受けた企業はどれも業種がバラバラだったので、帰る頃になるとどれがどれやら分からなくなっていた。それでも貰ったパンフレットを見て確認しようとも思わない私は、本当に就活生なのだろうか。スーツを着ていることでそう見えてしまうのなら、こんなもの早く脱いでしまいたい。そう思いながら私は会場を後にした。