「ごめん、琴音ちゃん。こっちお願い!」

 私を呼んだのは常連客の一人の原田さんだ。コーヒーをこぼしてしまったらしい。彼女はいつも忙しそうにしていて、ここでパソコン作業をしながらコーヒーを飲んでいるのだが、五回に一回はこうやって勢い余ってカップをひっくり返している。

「じゃあ俺、ホットコーヒーお願いします、浅倉さん(・・・・)

 原田さんの方に「今行きます」と返事をしていた私に向かって彼が言った。制服の左胸に付けている名札を見てそう呼んだのだろう。突然名前を呼ばれてドキッとしたことが彼に伝わっていなければいい。「かしこまりました」と彼に浅くお辞儀をして、原田さんの元へと急ぐ。あのまま彼と一緒にいると、何か良くない感情が生まれてしまう気がしたので、今日ばかりは原田さんのおっちょこちょいに救われた気がする。

 彼へのホットコーヒーの配膳は私の仕事ではなく、その後は一気に賑わってきた店内で慌ただしく過ごした。タイミングの問題ではあるけれど、彼に対するそれが私に回ってこなかったことが、誰かからもう彼に近づくなと言われている気がして、心臓がぎゅっと掴まれるよううに痛んだ。

 勤務時間を終えて事務所に戻ると、私より一つ年下の牧野友梨(まきのゆり)ちゃんが椅子に座ってカフェオレを飲みながら休憩をしていた。彼女は近くの女子大に通っていて、人懐っこい性格は皆から好かれていた。もちろん私もそんな彼女のことが好きで、同じシフトの日はバイト終わりによく二人で話し込んで、気づけば日をまたいでいることだってあった。モデルのように足を組む彼女に、「今日もスタイル抜群」と声をかけると、「もぉー、琴音さんはそうやってすぐ私を甘やかすんだから」と言って、彼女は鞄からチョコレートを取り出して私に手渡した。

「今日めちゃくちゃ外寒いみたいですよ。気をつけて帰ってくださいね」

「え、そうなんだ。私定期切れちゃったから今日は歩いて帰ろうと思ってたんだけどなぁ」

「寒いですよー?あ、じゃあちょっとここでコーヒーでも飲んで暖まっていくっていうのはどうですか?私、琴音さんに聞きたいこともありますし」

 ニヤニヤと妙な笑みを浮かべる彼女はなんだか楽しそうだ。何を聞かれるのか気になったけれど、先にコーヒーを注文しに行くことにした。