その晩、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)が本殿に戻ると、衣桁にかけられたコートをしげしげと眺めている子供がいた。
本来、何人たりとも立ち入ることができない本殿の最奥である。だが天之御中主神はその背を見てにこりと笑った。

安徳(あんとく)天皇」

呼ばれて子供は振り返る。
水天宮の祭神が一柱、源平合戦の折り、僅か八歳で一族もろとも入水し崩御した天皇だ。

「お前も、現代の服が気になるか?」

言われて安徳天皇は笑顔で小さく頷く。

「ふむ。着る事はもちろん、触れる事も叶わぬが……」

天之御中主神は知っている、幼くして天皇に据えられ、訳も判らずに海中に沈んだ御霊の淋しさを。その御霊を慰める為に神として祀られたとて、それがどれほどの慰めになるのか。天之御中主神はこの幼神と長きに渡り水天宮に存在してきた、人は勝手にこの幼い天皇を水と子供の守り神と崇めているが、もちろん安徳天皇にそんな力があるわけがない。
ただのあどけない子供だ。

「──うむ。たまには俺から贈り物をしてやってもいいだろう」

天之御中主神は名案が浮かんだとばかりに嬉しそうに言ったが、安徳天皇はきょとんとするばかりだ。


***


そして、朝の祝詞の折りに。

「はい? プレゼントですか?」

健斗が眉間に皴を寄せて言った。

「ぷれぜんとと言うのか。うむ、それを安徳天皇にしてやろうと思う」
「安徳天皇」

健斗は思わず復唱した、健斗が知らぬはずが無い、水天宮の二大祭神だ。他に安徳天皇の母の建礼門院や、祖母となる二位の尼と共に祀る神社もあるが、こちらでは天之御中主神と安徳天皇のみとなる。

「俺も明香里にコートや靴をもらって嬉しかったからな。安徳天皇にも味わってもらおうと思って」
「以前にも言いましたが、モノはタダでは手に入りません」
「うむ、だから、どうしたら良い?」
「本気で言ってます?」
「もちのろんだ」
「──でしたら」

健斗は、にやりと意地悪く笑った。





明香里がいつもの待ち合わせ場所へ来ると、待っていたのは白狐だった。
ちょこんと座った可愛らしいその姿に、思わず笑顔になる。

「あれ? 狐さんだけ?」
「はい、お迎えに参りました」
「迎え?」
「はい、本日天之御中主神さまはお越しになれないので、明香里さまを水天宮へお連れしろと」
「え……来れないって……」

途端に明香里の背に冷たいものが流れた、ついに元の霊体に戻りその姿を見られなくなってしまったのかと。

「心配はございません、なにやら忙しいからとウキウキワクワク、楽しそうに私を使いに出したまで。さあ、どうぞ、こちらへ」

狐は先頭を切って尻尾を振って歩き出す。明香里は事実を確認できないまま、その後をついていった。
しかし、狐に問い質すまでもなかった、境内に天之御中主神の姿を見つけてほっとする。

(まだ、見える)

天之御中主神は見慣れぬ袴姿で、鼻歌交じりに竹箒で石畳から砂利を避けていた。
人の近付く気配に顔を上げる、明香里の姿を認めてこれでもかと破顔した。

「明香里!」

嬉しそうな声に、明香里も笑顔になる。

天之(あめの)くん、なにしてるの?」
「掃除だ!」
「それは見ればわかる、なんで掃除してるのか聞いたの」
「あるばいとだ、お金が必要になってな!」
「アルバイト……? お金なんて何に使うの?」
「安徳天皇にぷれぜんとをしようと」
「あんとくてんのう?」

思わず繰り返すと、狐がこの水天宮の祭神の話をしてくれた、明香里は氏子のくせに誰が祀られているかなど気にした事がなかったと改めて思った。

「あー……日本史で勉強したな……安徳天皇さまはどちらにいらっしゃるの?」

壇ノ浦の戦いと称される戦で崩御した天皇を思い出す。

「ここだ」

天之御中主神が自らのすぐ脇で、手の平を下にして差し出した。その形から頭でも撫でているのだろうと想像できた。手の平は、天之御中主神の腰の高さだ。
その小ささに、自分の意思ではなく大人の都合で入水した天皇の事を思い、胸が苦しくなった。

「安徳天皇さま……私からもなにか贈り物を……」

先程まで天之御中主神が手を差し出していたあたりを見つめて言ったが、

「明香里、安徳は今、明香里のすぐ前にいる」
「──あ」

慌てて視線を落としたが、その姿を見る事は叶わない。

「何もいらない、頭を撫でてくれと言っている」
「え、でも……」

姿も見えないのに、と思ったが。

「ここだ」

天之御中主神が笑顔で明香里の手を取り、それと思ぼしき場所へ導いてくれた。
明香里は指を広げて、想像を巡らせてその頭を撫でた。肖像画はうろ覚えだが見たのは覚えている、おかっぱ頭の少年だったはずだ。
たった8年で、逸話では祖母か侍女かに抱きかえられ、水に飛び込んだ子を思うと胸が締め付けられる。手の平になんの感触もないのが辛かった。

「──君も顕現できたらいいのにね。そしたらぎゅっとしてあげられるのに」

思わず呟くと、明香里の手を握ったままの天之御中主神は、その手をぐいっと乱暴に上げた。

「きゃ……っ! なに!?」

片手だけ万歳の形にさせられ、明香里は声を上げる。

「そんな事は許さん、明香里に触れていいのは俺だけだ」
「えっ、安徳天皇はまだ子供でしょ! 子供にやきもち妬くなんて、心、狭過ぎじゃない!?」
「神だって、嫌なものは嫌なんだ。あ、こら、安徳、調子に乗って抱き付こうとするな」

全くの空っぽの空間に向かって怒鳴り、喧嘩を始める天之御中主神に、明香里は呆れた溜息を吐いた。

「っていうか、天之くんは安徳天皇さまは見えるのね」
「ん? そうだな、こら、安徳!」

なにもない空間なのに、両手でなにか掴むようにして持ち上げた。それはやはり、人と神との間の存在なのだとわかる、つまりは、いずれは見えなくなってしまう存在だということだ。
思わず唇をかみしめた時、社務所の引き戸が開き健斗が姿を現す。

「やあ明香里さん、お元気そうでなりよりです、ちょっとお話があるんですが」
「権禰宜さん、神様を働かせるのはどうかと思います」

明香里はすかさず異論を唱えた、健斗は芝居じみた溜息を吐いて応える。

「お金の価値を知らしめるにはいい機会でしょう。神様とはいえ、社会経験の低さは子供と一緒です。欲しがるだけモノを与えていては教育にはよくありません」
「でも──」

この人は永遠にここに居る訳ではない──そう言いかけてやめた。それを自分で肯定するのは心が引き裂かれそうだった。この刹那だけでも楽しみたいなどと……。

「なあ、だいぶ働いたぞ! 賃金はいかほどだ!?」
「だいぶ……」