「まさか、あの二人が一緒に辞めるなんてね」

 「ホント。よく部長が許したよねぇ」

 大きめの紙袋を片手に、尚美と肩べ並べ
ロビーへ向かう。その背中に、いくつかの囁き
声が投げかけられた。

 “聴こえるように言うなら、面と向かって言え
ばいいのに”とでも言いたげに、尚美が隣で肩を
竦める。
 俺は尚美から向けられた視線を、苦笑いで
受け止めた。あの夜、ゆづるの家から帰宅した
俺は、すぐに部長に渡すための退職願を認めた。

 もちろん、栄転とも呼べる辞令を反故にして、
突然会社を辞めると言ったことろで部長が簡単
に許すわけがない。

 俺は、「すでに内定先から入社日を決められ
ている」という架空の理由を伝え、何とか翌月
の退職に持ち込んだのだった。

 その退職日が偶然、尚美と重なってしまった
のだから、周囲が騒めくのも仕方ない。色んな
憶測が渦巻いて、俺の耳にも届いたが、尚美は
「案外、的外れでもないね」と笑って受け流し
てくれた。

 「そう言えば、これから恭介が働くお店って、
どの辺にあるの?」

 建物の自動ドアをくぐり抜けたところで、
尚美は俺を見上げた。さらりと掻き上げた髪が、
夜風に靡く。
 俺は、ふむ、と少し考えてから、それは内緒
と返した。

 「どうしてよ。恭介がバーテンやってるとこ
ろ、見に行きたいのに」

 尚美が口を尖らせて、不平を言う。俺が会社
を辞めると言った時は、ずいぶんと驚かれ、
引き留めもされたが、いまではその決断を
「何だかカッコいいね」と応援してくれていた。

 それでも、俺は尚美に“そのこと”を告げよう
と決めている。いまが、その時だった。

 「ごめん。どうしても、待っていたいんだ。
独りで。だから、もう………」

 不意に、俺の声のトーンが下がったことに
気付き、尚美が歩く速度を緩めた。
 三歩先を歩く俺との間を、乾いた風が吹き
抜ける。尚美は確かめるように、「独りに、
なりたいんだ」と俺の背中に呟いた。

 前を向いたまま頷く。
 振り返って尚美の顔を見なくても、どんな顔
をしているのか想像できた。

 コツコツ、とヒールの音が俺の隣に追いつい
て並ぶ。「そっか」と、すべてを悟った尚美が
笑って、前を向いた。

 「じゃあ私も、そろそろ独りで立っていられ
るように、頑張ってみるかな」

 「実家に帰らないのか?」

 「もちろん。そんな遠くに離れたら、あの人
とも会えなくなっちゃうし。しばらくは、新し
い場所で、独りでやってくつもり」

 「…………」

 俺との別れを受け止めたばかりの瞳が、静かな
決意を宿して光る。不道徳としか呼ばれることの
ない関係を、まっすぐ貫けるその姿は、今の俺に
は眩しかった。