芳江が船をこぎ始めたのを確認すると、あかりは足音を忍ばせて後ろ向きにベッドから離れた。

そっとカーテンを直し、病室をあとにする。病室のドアが静かに閉まったことを確認すると、ようやくあかりは気を抜いた。

「あら、帰るの?」

「うわっ……! 西山さんかぁ。びっくりした」

突然後ろから声をかけられ、あかりはびくりと肩が跳ねた。

振り返った先にいたのが西山だと分かりほっとした表情を見せる。西山はほっそりとした指先を頬にやりながらふんわりと笑った。

「最近里田さん、明るくなったんじゃないかしら?」

「え、祖母がですか?」

そんなに変わっただろうか、とあかりはわずかに思案する。しかし西山は、「違うわよ」と今度は声を出して笑った。

「芳江さんじゃなくて、あかりちゃんの方。最近とってもうきうきしているのが伝わってくるもの。もしかして……」

恋? と、西山は茶目っ気たっぷりに首を傾げる。

あかりは頬に熱がこもるのを感じてそこに両手をやった。

「そんなことないと思います! じゃあ、私帰るのでよろしくお願いします!」

それから、西山の返事を待たずにエレベーターホールの方に歩みを進めた。














「こんな時間にお昼寝したら、夜眠れなくなりますよ、芳江さん」

病室に入ると、ブラインドの隙間からの木漏れ日を浴びて目を閉じている芳江が横たわっていた。

西山の言葉に、芳江は案外あっさりと目を開け、ふん、とつまらなそうに鼻を鳴らした。

「あたしの可愛い孫娘が時計ばっかり気にしてそわそわするもんだからさ、この老いぼれが気を遣ってやったってわけさ」

文句あるかい、と横目で西山を見る芳江は口調に反して機嫌が良さそうだ。

「いえ、別に? そういう芳江さんもそわそわしているように見えますけど」

にっこりと笑う西山。その笑顔に、芳江も小芝居をやめ頬の皺を深くした。

「そわそわもするさ。あたしの可愛い孫娘が、あの通りなもんだからさ。この老いぼれが気を遣ってやらないと、あの子はずっとここにいただろうよ。まったく、待ちぼうけさせる気かね。奥手な子だよ本当に」

芳江は西山に渡された体温計を慣れた手つきで左の脇に挟み、それから右手を差し出した。西山は差し出された右手で血圧を測定する。

「楽しそうですね、芳江さん」

マンシェットの圧が抜ける音を聞きながら、芳江はため息をついた。

「ああ、楽しいね。余生を楽しまなきゃ、大団円のためにもね。早く逝っちまったあの子が迎えに来るまでに、土産話でも用意しとかないといけないからさ。とくにあかりの話は聞きたがるだろうから……。もっとも、あの子はいつだってあかりを見守っているから、とっくに知っているんだろうけれどねぇ」

芳江はそっと目を細めた。何かを懐古しているようにも、ただブラインドから洩れる陽光が眩しいようにも見えた。

「あたしが居なくなった後、あかりがどんなふうに生きていくのか……。まあ不安っちゃあ不安だが、楽しみだねぇ。あたしの孫だからきっと逞しいはずだけれど。心配? してないよ、そんなもの。あたしが居なくなった後のことだって、何一つね。まあただ……あたしがいなくなった後、あの子の隣には誰がいるのかねぇ?」

あくびを一つしながら、芳江は電子音を鳴らした体温計を西山に差し出した。











(西山さんってば…するどいなぁ、もう……)

悟と初めて会話を交わしてからしばらく経ち、あかりは芳江の面会後に、屋上へ向かうことが日課となっていた。

それがいつの間にか身体に染みついた癖のようになり、会えない日にはひたすら屋上に思いを馳せた。

(それが、『うきうき』ってこと、なのかな……)

頬に手をやったままのあかりは、前をよく見もせず廊下の角を曲がった。

「きゃっ!」

その角の向こうで、あかりは誰かとぶつかった。予期せぬ事態にバランスを崩してよろめき、踏みとどまろうとしたがヒールが災いして体重を支えきれずに転倒した。

「あらやだ! ごめんなさいね、大丈夫かしら?」

 屈んで目線を下げた女性は、ぷっくりとした頬とくりっとした目が茶目っ気を感じさせる壮年の看護師、竹下だった。細身の体型だが、丸顔の影響か幼く、溌溂とした性格を醸している。

彼女はベテランの眼差しを持ってあかりの身体を上から下まで眺め、ふと足元で視線を留めた。

「あなた足首、捻ったりした? ちょっと触るわよ」

「いたっ。ちょっとだけ……」

ぎゅっと掴まれ思わずびくりと身体が硬直した。尋ねられると、何となく痛い気がして思わず肯定した。

「あなた確か芳江さんのお孫さんの……あかりちゃん、だったかしら? ちょっとあっちの部屋で足冷やしときましょう、念のため念のため」

そう言うと竹下は、あかりの返事も聞かずにてきぱきと準備を始めた。

歩く分には問題ないと判断され、処置室と書かれた扉の向こうへ案内される。そこの処置台に座らされしばらく待つと、竹下は氷嚢を持って戻ってきた。

「本当に、私ったらよそ見しててごめんなさいねぇ」

もう一度謝りながら、目線はあかりの足首一点を見つめていた。冷たくなり過ぎないようタオルを巻いた氷嚢を素足になった足の甲に乗せる。

「いえ、私が前を見ていなかったので……お仕事中なのにすみません」

申し訳なさと恥ずかしさで再び熱くなった頬を両手で押さえていると、竹下はやっと足首から視線を上げ笑みを見せた。

「あ、その顔は、もしや逢瀬ね?」

「おうせ?」

言葉の意味が分からず、あかりはオウム返しをする。

「うふふ、良いわねぇ〜若いって。私にも燃えるような恋をした時期ってのがあったわぁ」

何を勘違いしたのか、竹下はまるで乙女のように胸に手を当てて肩を竦めた。

「時には患者さんとも、なぁんてね」

冗談めかして微笑む彼女の言葉に、あかりは少々興味が湧いた。

「患者さんと、ですか?」

あかりからの問いかけに、食い付いたのが意外だったのか丸い目をさらに丸くしている竹下。当時を思い出すように目を閉じ、口角を上げていた。

「そうね、私が西山みたいな新人の頃だから、もう四十年くらい前になるかしら。当時担当した患者も同い年くらいだったんだけれどね」

ふふふ、と楽しげに声を洩らす。患者との恋、というシチュエーションにそそられ、あかりは黙って続きを促す。

「……でもまあ、死ぬような病気の患者とはいただけないわね。それこそドラマチックな展開になるから」

「……ドラマチックな……」

竹下のそんなため息交じりの言葉に、あかりは嫌な想像を思い浮かべずにはいられなかった。そんなあかりを見て、竹下は事もなげに言い放った。

「そいつとね、将来まで誓いあったのよ。でも、一応患者と看護師の関係だったし、『退院するまでは手を繋ぐだけ』なんてピュアな約束ごとを作っちゃってさ。だけどそいつ、結局それからすぐに亡くなっちゃったわ」

あっけらかんとした竹下は、まるで朝食の内容や天気の話をしているかのように淡々としたものだった。

「あらやだっ、もしかしてドラマ化のオファー来ちゃうかしらっ? なぁんてね、うふふっ」

時が経ってしまうと、悲しい思い出もこんな表情で語ることができるのか、と、あかりは妙に空虚な心持ちになった。置いていかれるとは、死ぬとは、そういうことなのか、と────。

「まっ、そんな情熱的な恋をした私も、今じゃ普通の会社員の妻。そいつは過去の恋人の一人くらいにしか思ってないわよ。元カレ? いや、元カレ未満?」

竹下は笑いながら、再び視線をあかりの足首に向けた。痛みがないことを確認したあと、靴を履くよう促しながらてきぱきと物品を片付け始める。

「辛く……ないんですか? そんなの……」

あかりは緩慢な動作でパンプスを履きながらも、視線は片付けをしている竹下に向かっていた。ん? と手を止めずに返答した竹下が、吹き出しながらも浮かべたのは苦笑だった。

「今は旦那も子どもも、孫までいて幸せ。でもね、死に別れってのは諦めが難しいものよ。辛くなかったって言えば、嘘かもね」

今だって、患者さんを送る時は辛いもの、と竹下。人の死に泣かなくはなっても、慣れることは決してないと言う。

「私達看護師は、時にご家族よりもたくさん患者さんの側にいられる、そういう仕事なのよ。私は彼の死を経験して、なおさらこの仕事を辞められないって……そう思ったの。亡くなっていく人が後悔しないように……何より、『何もできなかった』って後悔する人が少しでも減るように……患者さんのご家族や、もちろん自分も含めてね」

尊い────。

そんな言葉が脳裏に過った。その一言が透明感を帯びて胸の奥深いところにそっと舞い降り、静かに留まった気がした。

「ありがとうございました、竹下さん」

「あらやだ、良いのよ」

お互いに何が、とはあえて言わなかった。竹下はその人懐こい笑みを目一杯浮かべ、時計を確認すると、あら、と少々焦ったような声を出した。

「もうこんな時間だわ。夜勤に申し送りしないと……。ごめんなさいね、痛みが引くまで休んでて良いわよ」

それだけ言うと、竹下は忙しなく処置室を後にした。


あかりは周囲を見回した。名前も分からない滅菌器具が収められている硝子棚、様々な消毒や軟膏、テープ類が整頓されている包交車。

無機質で冷たそうな物品が無駄なく配置された白い部屋を見渡し、何故か悟のことを唐突に思い出した。処置室を後にし、あかりの足は自然と屋上へ向け動き出す。

ふと、悟が何故入院しているのか尋ねたことがないことに気づかされる。

祖母が入院し、悟と出会い、すでに一カ月程の時間が過ぎようとしていた。出会った頃と比べて悟の青白い肌が健康的になってきたわけではなかったが、かといって体調が悪化したようにも見えない。

何故入院しているのだろう。素朴な疑問であったが、尋ねてしまったら引き返せないような何かを感じた。