-----あの夜から、ひと月が過ぎた。

普通の恋人たちとは少しだけ違ったやり取り

はあるものの、僕たちは順調に“僕たちの恋”

を育んでいた。




「遅くなっちゃったな……」

仕事帰り。

駅の改札をくぐりながら、腕時計を見やる。

(遅くなりそうだから、先食べてて)

と、短いメールを送っておいたけれど、弥凪は

ちゃんと見てくれたのか、携帯に彼女からの

返事はなかった。

僕は足元に気を付けながら、歩き慣れた道を

少し急ぎ足で歩き始めた。

そうしてひとり、口元をほころばせる。

今日は弥凪がカレーを作って、僕の部屋に持って

来る約束をしているのだ。

僕はエプロン姿でカレー皿を手にした弥凪を

思い浮かべ、空腹とは別の涎を垂らしそうに

なった。

僕たちが会う場所は、ほとんどが僕の部屋か、

コッペパンを食べたあの公園だった。

僕と弥凪の家が近いこともあって、何となく

そういうことになってしまっているのだ。

(どこか行こうか?)と聞いても、弥凪の返事は

決まって(一緒にいられるなら、どこでもいい)

というものなので………

だから、僕は付き合い始めてから割とすぐに、

彼女に合鍵を渡したのだった。





それでも、休日に公園や近所を散歩する時など

は、必ず手を繋いでいる。

もちろん、それはお互い手を繋いでいたい、

という気持ちもあるのだけれど……

僕たちの場合は少し別の意味合いもあった。

ある時、弥凪と手を繋いで歩いていた僕は、

スロープの途中にある低い段差を踏み外し、

足を捻ってしまった。

幸い、弥凪が手を繋いでくれていたので

派手に転ぶことはなかったのだけれど……

一目見て“階段”とわかるものは、僕も気を

付けるので意外に躓くことはない。

けれど、「どうしてこんなところに!?」と、

叫びたくなるような、突然現れる低い段差は、

視野が狭い僕にとってかなりの脅威だった。

それ以来、僕と弥凪の間で小さな合図が

決まった。階段を下りるときや、躓きやすい

段差を見つけたときは、弥凪が恋人繋ぎを

している僕の手の甲を、トントンと指で叩く。

僕はその合図で足元を確認し、注意を払う。

こうして、常に弥凪が僕の欠けた視野を

補ってくれるお陰で、僕は弥凪といるとき

だけは安心して街中を歩くことが出来た。

代わりに、弥凪が聞くことの出来ない音は、

僕が聞き取り、伝えている。

それは、道を歩いているときに背後から

近づく車の音だったり、事故や停電で電車が

止まってしまった時の車内アナウンスだったり。

スーパーのレジで店員さんから声を掛けられた

ときなども、僕が代わりに答えたり、弥凪に

伝えたりした。

彼女と行動を共にするようになって気付いた

のは、世の中は意外に音声中心の社会である

ということだ。