純也の部屋で目覚める朝は、いつもおいしい匂いがした。
時には土鍋で炊いた筍ご飯の匂い。
時には焼きたてのパンの香り。
カリカリに焼いたベーコン。
鰹と昆布の出汁。
はじけるようなオレンジ。

すっきりとしたカットソーに、濃いグレーのカフェエプロンをつけて、純也はキッチンに立っている。

「唯衣、おはよう」

純也の笑顔は、私の身体を目覚めさせる。
私はダイニングの椅子で膝を抱え、純也を見つめた。

「おはよう。何作ってるの?」

少し甘い、ホットケーキのような香りに、私は期待を膨らませて尋ねた。

「今日はこれ」

皿ごと手渡されたのは、ブーケみたいなクレープだった。
サニーレタス、パプリカ、アボカド、アーリーレッド、スモークサーモン……。

「きれい……」

「どうぞ、食べてみて」

純也の料理は、ソースもドレッシングもとりどりのジャムも、まるで実験するみたいにいつも違う味がした。
マヨネーズやケチャップだって手作り。
ベランダでは何種類ものハーブを育てていて、朝摘みの新鮮なものが食卓を豊かに香らせる。

「いただきます」

「少しカボスも足してみたんだけど、酸っぱくない?」

ひと口食べると、口の中には甘味も酸味も苦味も同時に存在する。
私の鈍感な舌では、これが何の味なのかわからないし、私の乏しい語彙力では、このおいしさを表現する言葉を見つけられなかった。

「おいしい! すごく!」

私はいつも心から「おいしい!」と言った。
世界で一番おいしい。
今まで食べたことないくらいおいしい。
けれど、その気持ちは空を切るように伝わらない。
心からの言葉であっても、言葉は重ねれば重ねるほど無力になっていく。

純也は微笑みを返してくれたけれど、もう少しクセの少ないチーズの方がよかったな、などと、結局は私の感想など聞き流しているようだった。

純也は料理を愛していた。
もっと肉をやわらかく焼くにはどうしたらいいか、トマトの甘さを引き出すためにはどのくらいの火加減でどのくらいの時間煮込んだらいいのか。
頭の中は、いつもそんなことで埋め尽くされていた。

必然的に、純也の部屋のキッチンは独り暮らしにしては大きく、リビングに置いた棚にも調理器具や調味料がぎっしり並んでいた。
お肉を焼くためのフライパンとパンケーキを焼くためのフライパンは別。
イチゴのヘタを取るためだけの道具がある。
塩だけで十数種類。
最新の温度調節機能を搭載した器具があるかと思えば、丁寧に管理された糠床もある。

自宅を「城」と表現することがあるけれど、私は純也のキッチンを「要塞」だと思っていた。
難攻不落。
誰も寄せつけない。