あんなに爛漫と咲いた桜を、他に見たことがない。
きっとこの先もない。

ボランティアサークルに所属している友人から手伝いを頼まれたのは、専門学校二年生の春。
私は十九歳だった。

『介護施設に入居してるおじいちゃんやおばあちゃんの車椅子を押して、公園を散策するだけ。職員さんたちもいるし、難しいことは何もないから!』

電話の向こうで両手を合わせる姿が目に浮かんで、私は回線に届かない程度のため息のあと、了承の返事をした。

『難しくない』と言われても、経験のない私は、初めて触る車椅子に緊張していた。

「紀藤唯衣(ゆい)です。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」

相手は、白髪をショートに整えた穏やかなおばあちゃんだった。
名前も、年齢も、持病などの情報も、何も教えられなかった。

その公園はこの辺りでもっとも有名な桜の名所で、私も幼いころから数回訪れたことがあった。
けれど、その日は格別だった。
桜は満開で、天候が不安定な春にあっては珍しく、暑いくらいの晴天だった。
またそれが、休日に重なるなんて幸運は、惑星直列に等しい。

「まあ! ……きれいねぇ」

「はい」

今まさに開いたばかりの花は力強く、ちょっとやそっとの風で散ったりしない。
すべての枝が天に伸び上がり、頭上を覆い尽くす花々は、その向こうに青空があることさえ忘れさせた。
一輪一輪は小さくとも、いま、生命を言祝ぐ光に満ちている。

私は確信していた。
この桜はきっと生涯忘れない。
私は今日、人生の幸運の半分くらいは使ってしまったかもしれない。

「今日は今までで一番きれいな桜ねぇ」

「はい」

おばあちゃんのように素直に、きれいだ、と口にできる人間ならよかったのに。
そんな私が、他の話題を提供できるはずもなく、会話はまったく弾まなかった。

人はうつくしいものを見ると、なぜだか悲しくなるものだけど、私は自分の無力さに、はっきりと悲しくなっていた。

私といて、この人は窮屈じゃないかな。
こんなにすばらしい桜なら、誰か一緒に見たい人もいるかもしれないのに。
せめてもっと慣れた人ならよかったのに。

公園内の歩道は整備されていたけれど、時折舗装されていない場所を通ることもあった。
砂利の上で、タイヤは回らなくなり、思わぬ方向に取られてしまう。
非力な私では思うように進まず、額から頬へ汗が伝った。