二ノ宮家は明治時代から続く老舗の旅館と和菓子の会社でもある。近年、旅館の数を関西を中心に増やし大規模会社になりつつある。どの旅館にも和菓子の店舗があり、宿泊客でなくても気軽に出入りができる造りになっている。宿泊客と買い物客両方からの売り上げで収益は右肩上がり。そんな会社の社長をつとめるのは、二ノ宮伸之輔。二十九歳の社長。年老いた先代に代わり、社長に就任したのはつい一年前のこと。現代でも当主制があり、先代が会長になり、当主が社長になる。
「聞いてよ、郁留。専務のおじさんがさぁ」
「はぁ」
 朝から大量に唐揚げを揚げながら、 同じ愚痴を繰り返す伸之輔に、うんざりも通り越し、生返事で聞き流す郁留。それでも伸之輔は話を続ける。若くして社長になった伸之輔をよく思っていない人間が役職の中にいるようで、なにかと揚げ足を取られているようだ。
「いつも愚痴ばかりでごめんね」
 伸之輔はいつも愚痴の最後には謝るので、うんざりはするが怒れないでいる。彼だって好んで社長になったわけではないからだ。
 伸之輔と郁留の兄弟は隣街にある二ノ宮の旅館を営む家庭に生まれたが、当主候補の一人が事故で死亡し、その次の候補に社長教育を施されていた伸之輔が引き受けてしまった。
郁留は、進学した高校が本家の近所ということもあって兄弟の二人暮らしが始まったのだ。
「はい、お弁当できたよ」
 毎日重箱のような弁当を渡されるので、郁留の通学鞄は何泊でもできそうなくらい大きな旅行用鞄になった。重たいけれど、友達が伸之輔の料理を絶賛しながら平らげてくれるし、料理が好きな伸之輔が嬉しそうに作って持たせてくれるので、もう少し小さくしてほしいと言えなくなってしまった。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
 振り返ると、伸之輔の顔色が少し青いように見えたので、疲れているのだろうなと思い、帰りに栄養ドリンクでも買ってこようと決めて学校へ向かった。

「二ノ宮君」
 休み時間、学年主任の教師に呼び止められた。
「来年、生徒会やってみない?」
 どうやら来年の生徒会の立候補者が集まらないらしく、声をかけて回っているらしい。
「二ノ宮君は成績もいいし、真面目だからね。生徒会長にいいと思うよ」
 生徒会に入るのにトラブルを起こさない生徒がいいのは分かるが、成績は関係ないはずだ。
「いや、僕は、無理だと思います」
「もう少しよく考えてみて」
 結局、返事を保留にされ、学年主任は満足そうに職員室の方へ行ってしまった。無理だと言ったのに。話を聞いてくれない学年主任にストレスを感じ背中を睨み付けた。
「二ノ宮君」
 次の休み時間、また学年主任に呼び止められた。いくらなんでも保留時間が短すぎないだろうか。と困惑していると、どうやら違う話のようだ。
「お兄さんが病院に運ばれたんだって。ご両親にも連絡したけど、すぐには来られないから、とりあえず二ノ宮君に病院に行ってほしいらしいよ」
 さっと血の気が引いた。そういえば、今朝は顔色が悪いように見えた。気づいたのにどうして何も言わずに登校してしまったのだろうと後悔した。










「あ、郁留。ごめんね」
 病室に入ると、ベッドに横たわってはいるが、いつもと変わらない様子の伸之輔が申し訳なさそうに笑っていた。
「お腹がとっても痛くて、我慢できなかったから仕事中だったけど病院に行かせてもらったんだ。そしたら、胃潰瘍だって。1週間くらいこのまま入院するよ」
 過労かストレスで胃腸が弱っていたのだろうか。近くにいたのに、兄の様子がおかしいと気づきながらも何もしてあげられない自分がもどかしかった。
「もうすぐお父さんとお母さん来るからね。大丈夫だよ」
郁留の機嫌が悪いと思った伸之輔は気を使って励まそうとする。
「胃に穴開いている人に大丈夫って言われても」
「まだ開いてないよ」
 あくまでも冗談っぽく話したい伸之輔を尻目に、帰り支度を始める郁留。
「帰るの?」
「入院するなら服とか持ってこないと。適当でいい?」
「うん、それは、ありがとうだけど」
 伸之輔の声は少し寂しそうだが、郁留は背中しか見せず病室を後にした。
「反抗期少年だ」
 病室に一人、伸之輔の独り言がポロっと出てきた。
 鞄に伸之輔の寝間着を適当に詰めて再び病室に入ると、両親が到着していた。伸之輔は両親の前では先ほどより少し弱気な表情をしている。
「あ、郁留。ありがとう」
 伸之輔が郁留に気づくと、弱気な表情は切り替えられた。
 伸之輔が入院する一週間の間、郁留は両親と実家に帰るか、母親と本家にいるか、どうするか聞かれたがどちらも断った。学校もあるし、客がいるのに父親一人で旅館を切り盛りするのは難しい。
 しばらくして、医者から説明を聞き、両親が入院の手続きをし始めた。やることがなくなった郁留は帰ることにした。誰かに一言声をかけようかと思ったが、誰も忙しそうにしているのでやめた。







 今日は色んなことがあって疲れた。なんだか頭がボーッとして何も考えられない。帰りをとぼとぼ歩いていると、後ろから肩をトントンと叩かれた。振り返ると息を切らした竜がいた。郁留の姿を見つけて走ってきたようだ。
「伸之輔さんどうだった?」
 親戚である竜にも学校から話があったらしい。胃潰瘍で入院することになったと報告した。
「わりと元気そうにしてた。僕の前でだけね」
 郁留の棘のある言い方にきょとんとして首を捻る竜だったが、伸之輔の性格を知っているのですぐに把握した。
「稜輔もさ、自分がしんどい時でも俺の前でだけ平気な顔するんだ。小さい子供だったら騙されてやるんだけど、さすがにこの歳になると気づくよなぁ」
 同じように子供扱いを受けたことがあると共感してくれたので、なんだか少し安心した。それと同時に大変なときに拗ねてしまったと反省した。
「そうだ。今から家に来なよ。一人だろ?」
「いや、いいよ。もう眠たいし」
「眠たいって、晩御飯は?まだだろ?」
 急な誘いに驚いて断ろうとするが、竜は今晩の献立で頭がいっぱいになっていた。
「食欲ない」
「え?」
 突然、じっと郁留の顔を見る竜。
「何?」
 いきなり真剣な顔で見られ、郁留は思わず目をそらすが、竜に両手で頬を触られる。
「やっぱり今すぐ家に来て」
 竜は郁留の荷物を全て取り上げてついて来るように言うので、郁留はしぶしぶ竜の後をついていく。手ぶらになったにも関わらず体が重い。
「熱があるね」
 家に着くと、稜輔に熱を測られた。
「客間に布団敷いたからね」
 奥の部屋から千秋が出てきて横になるように促された。
「着替え、俺のじゃ小さいから稜輔のだけど」
 竜はタンスから稜輔の寝間着を持ってきた。三人の完璧な連携を前にポカンとして、されるがままの郁留だったが、ボーッとしていてはいけないと立ち上がる。
「大丈夫なので、帰って寝ることにします」
「なに言ってるの。今日はもう外に出たら駄目」
 稜輔に体温計を見せられる。38.5度。数字を実際に目にすると、自分は体調が悪いんだと自覚してしまい、一気に怠気が襲ってきて座り込んでしまった。目が回って視界が歪んでいく。
「眠たいみたいだね」
 竜と稜輔に担がれ、千秋が敷いてくれた布団に入ると、すとんと眠りに落ちた。
「おやすみ、郁留」

 目が覚めると、真夜中だった。電気が消されて部屋は真っ暗。寝ている間に熱が上がったらしく、頭がガンガン痛む。
 ふと、誰かの手が額に触れた。小さくて柔らかい手。部屋が暗くてはっきりとは見えないが、この家の誰でもないと思った。手がひんやりして気持ちがいい。頭の痛みは少し落ち着いた。
 郁留は「ありがとう」と呟いて、眠りについた。

 再び目が覚めると、外は明るく、カーテンから見える太陽は高く上っていた。時計を見ると正午すぎ。
「おはよう、郁留君」
 稜輔はお粥を持って部屋に入ってきた。
「食べられそう?」
 食欲はないが、食べられないというほどでもない。稜輔に渡されたお粥は空っぽの胃に染み渡り、お腹を温める。
「竜は気にしていたけど学校行ったよ。欠席の連絡もしておいたからね」
「ありがとうございます」
 稜輔が平日の昼間に家にいるということは、仕事を休ませてしまったのだろうか。人の家で倒れて、世話をしてもらって、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「すいません」
「数少ない仲が良い親戚なんだから、世話くらい焼かせてよ」
 稜輔はたぶん冗談を言っているのだろうが、全く笑えない。二ノ宮家は冗談が下手くそな一族らしい。
「なんで、そんなことに」
 もともと当主候補の一人だった稜輔。彼は当時の当主だった父親と大喧嘩し、家を飛び出してしまった。だが、郁留の目からは、穏やかな性格の稜輔が大喧嘩するようには見えない。先代当主だってむやみに怒るような人でもない。
「聞いちゃう?」
「話したくないなら、別に」
「高校生の頃のことなんだけど」
 話したい様子の稜輔は郁留の返事を遮って話し始める。
「その時の親友が暴走族の総長だったんだ」
「え?」
 思っていた以上に荒れた学生時代だったことに驚愕して思考が止まった。
「僕は暴走族じゃないよ。たまに総長の後ろに乗せてもらっていただけ」
 総長の後ろに乗っている人は、暴走族とどう違うのだろうか。
「総長は困っている人がいたら放っておけない性格でね。人助けもしていたし、弱い者いじめも許さない人で、そんな総長のチームのみんなも優しい人達だったよ。僕はチームに入る気もないのにずっと仲良くしてくれていた」
 チーム同士では喧嘩していたけどね。稜輔がまた冗談を言うが、やっぱり笑えない。
「親父はそれが気に入らなかったみたい。総長と縁を切れと言われて反抗したら追い出されちゃった」
 稜輔の父親である先代当主は、一見穏やかな人ではあるが、世間体を気にする人でもある。このご時世に血縁にこだわり、直系でもない伸之輔を無理やり当主にしたのだから。
「僕が反抗なんかしないで大人しくしていれば、今ごろ伸之輔君は胃を痛めずにすんだのにね」
 郁留が慌てて首を横に振ると、稜輔は「分かってるよ」と笑った。
「さぁ、もう少し寝なさい」
 稜輔は郁留に布団をかけ、部屋を出ていった。言われた通り横になるが、ある程度回復した郁留は寝付けず、天井をボーッと眺めていた。壁の向こうで、稜輔が食器を洗う音が聞こえる。
 体調を崩すということは、ほとんどなかった。体は強い方だから。兄の伸之輔はわりと体調を崩しやすいから、自分は守る側だと思っていた。いざ体調が悪いとこんなに何も出来ないものだったか。 兄はしんどい中でも心配かけまいと明るく振る舞っていたのに、自分は全く余裕がない。
 体はまだ少し重い。昨日からたくさん寝たので目は冴えていたが、体はまだ休養を求めており、いつの間にか眠っていた。