祭壇の前から立ち去っていくリファとクロマユの姿を、遠くから眺めている男がいた。

 このアルフレート国の第二位権力者、国王のアルダンである。
 アルダンは影の薄い男だった。その見目は銀色の瞳に色白だが逞しく見える彫りの深い顔立ちで、精悍な王だと褒めそやされそうなものだが、幼いころから神がかった美しさを持っていたアルバが隣にいたことで、彼の存在は人々の印象から抜け落ちていくことが多かった。
 アルダンは勤勉な男だ。王であるための勉強は欠かさなかったし、今もアルフレートの民のために寝る間を惜しんで尽力している。
 けれど人々は事あるごとに、アルバアルバと兄の名前を口にする――この国で、アルダンはどれだけ努力してもアルバより評価されることはない。
 実子の双子たちも、アルダンよりアルバに懐いている。多忙なアルダンに比べアルバのほうが時間に余裕があり、双子たちと過ごす機会が多かったのもあるし、最近では突拍子もないアルバのほうに似てきているような気がする。
 アルダンの前には必ず、アルバが立ち塞がっていた。
「あの娘はどのように過ごしている?」
 執務室とはまた別の、アルダンの完全なる私室からはオオガミの祭壇がよく見えるのだ。アルバが招き入れたあの動物の言葉を解する少女の動向が、今のアルダンは気になって仕方がない。
「クロマユ様と四六時中過ごしていらっしゃいます。クロマユ様の言葉は理解されていないようですが、意思疎通はできているようです」
 日の光が差し込むアルダンの位置からは離れて、暗闇から声が答える。
 アルダンがかかえる私兵である。
「なるほど」
 普段から感情を抑えた話し方をするアルダンの声が、高揚で少し震えている。
 美しい少女――リファの訪れを、影響力を、アルダンは誰よりも期待しているひとりだった。
「もしあの少女を使ってオオガミ様を復活させることができれば、あのアルバも面目丸つぶれであるな」
 ふふっと笑ってすぐに、アルダンは顔から表情を消した。まるで彫刻のように見えるその姿は、背筋が凍るほどに美しい。
「アルバは悠長に構えているようだが、私はそうは待てん。今までずっとこのときを望み、待ってきたのだからな。あのアルバに一(いっ)矢(し)を報いる時を――夢見て焦がれ、叶わず、どれだけこの国を呪ってきたか――」
 薄い唇から呪詛がこぼれた。
 オオガミの化身であるクロマユが懐いているリファの血を捧げれば、すぐにオオガミは力を取り戻し復活するだろう――アルダンはそんな恐ろしい計画を胸に、王の顔をまとうのだった。


 アルダンによる恐ろしい計画が進行しているとも知らず、リファはアルフレートの街に下りてきていた。
(自分が守る民たちと交流すれば、もしかしたら元気が出るかもしれない)
 参拝がだめなら、クロマユを街の人々に触れ合わせてみてはどうかと、アルバに提案したのである。

『本来なら、クロマユ様は門外不出なのですが――』
 アルバはさすがにすぐにうんとは言わなかった。
 なんとか説得しなければ、と焦るリファを遮って、ジニアスが前に出た。
 なにを秘宝みたいに言っているのか知らないが、その門外不出で大切なはずのクロマユをサッカーボールにされてもにこにこしているお前が言うべきではない、とジニアスに長々と突っ込まれ、アルバはようやく許可を出したわけである。
「お前もあまり他国の街を歩き慣れてないだろ。クロマユと一緒に俺と離れるなよ」
 こういうとき頼もしいのがジニアスである。
 ジニアスは様々な国を回ってきたこともあり、多くの国の言葉を話せるのだという。このアルフレートの言語はリファの生まれた国のそれと大差ないが、それでも意味合いが違っている言葉なども多少ある。そのあたりをカバーしてくれるジニアスの存在はありがたかった。
「私たちは街生まれなので、ご案内には自信があります!」
「お任せください」
 初めての街ということもあり、アイとイフも城での仕事を調整して同行してくれた。クロマユとリファのために、心強い味方がたくさんである。
 リファはクロマユに花柄の愛らしい大判のハンカチを巻いた。普段の姿では大きすぎて目立つので、ひと回り小さくなれないかとお願いしてみたらピピっと鳴いて小さくなってくれた。いつもならリファの顔ほどのサイズが、今はリファの小さな両手のひらいっぱいにのるくらいの姿になっている。
 アルフレートの街は茶色かった。枯れた大地は季節が巡っても新芽が芽吹くことがなく、農耕にも向いていないのだという。百年前は緑深く美しい国だったそうだが、今はその面影もない。家々は木材が調達できないため、煉瓦と土くれで作られた簡素なものが多い。地面はぱさぱさで、少し歩くと砂ぼこりがする。市に並べられた果物や野菜は小ぶりなものが多く、あまり質もよくなさそうである。
「……」
 リファにかかえられているクロマユは、そんな街の様子をじっと見つめていた――といっても目の位置がわからないので、そのように見えるだけではあるが、きっと間違っていない。
(自分の魔法のせいで街が枯れてしまったなんて考えてないかな。しまったなあ、逆効果だったかな……)
 いつもよりずっと静かでおとなしいクロマユの様子に、リファは思わず心配になってしまう。
 リファはクロマユを抱く手に、ぎゅっと力を込めた。
「そこのお嬢さん、アルフレートご自慢のクッキーはどうかね?」
 露店に立っていた男が、目の前を通りかかったリファに元気に声をかけた。口ひげが豊かで、体格のいい壮年の男である。ムキムキといってもいいくらいの体格に、小さなエプロンがチャーミングだ。
「クッキー?」
 リファが露店を覗き込むと、狼の形をしたクッキーが並んでいた。こんがりと焼けていて、見た目にもおいしそうである。ふわりと漂ってくる香りが、優しい甘さで食欲をそそる。値段もお手軽である。
「オオガミ様クッキーさ。このあたりでとれる唯一のカムギ粉ってのを使って作ってるんだ。香ばしくてうまいから、お連れさんもおひとつどうだい」
 カムギ粉ならリファも使ったことがある。日本の小麦粉と遜色ないもので、このカムギ粉を使うとクッキーやホットケーキがとてもおいしくできあがるのだ。
「うまそうだな」
 甘いものも辛いものも酸っぱいものも大好物なジニアスが、リファの横から顔を出す。
「このオオガミ様クッキー、私たちメイドの間でも、おやつにするのにちょうどいいと人気のお菓子で、よく食べてますのよ」
 アイが興奮したように店主のおじさんからクッキーを受け取っている。
「ちょうどできあがったのがあるから、そちらを食べたらいい」
 そう言って手渡されたクッキーは熱いくらいで、リファは火傷(やけど)しないようにそっと歯を立てた。パキッと小気味よく割れると、口の中で甘さと香ばしさが爆発する。うまい。
「めちゃくちゃおいしい」
 リファは思わず声に出していた。思ったよりも薄く、固い触感だが歯触りがいい。隠し味にアーモンドなどの木の実類を混ぜ込んであるのか、クッキー生地以外の食感がまた楽しくて癖になりそうだ。
「うまいな、これははまる」
「焼きたてってこんなにおいしいのね」
「美味すぎますわ~」
 右からジニアス、イフ、アイである。
 リファたちの輝かんばかりの笑顔に、店主はドヤ顔で胸を張った。
「そうだろうそうだろう、俺たちのオオガミ様への愛が詰まった菓子だからな」
 その言葉に、クロマユがピクリと反応した。
「……私、この国に来てまだ間もないんでしゅ。オオガミ様ってなんですか?」
 リファはかかえているクロマユをぎゅうと抱きしめて、わざとそんなことを聞いてみた。
「だろうなあ。あんたたちほどきれいな顔はこのあたりじゃアルバ様くらいだから、きっと外からきた人だろうと思ったよ」
 げらげらと小気味よく笑う店主につられて、隣の露店の人たちも集まってきた。
「その黒いのはなんだい?」
「お嬢ちゃんのペット? 変わった生き物もいるもんだねえ」
「オオガミ様について知りたいんだって? よかったらうちの茶でも飲みながら話を聞いていきなよ」
「それなら茶うけには私んとこの蒸しパンはどうだい? オオガミ様クッキーもおいしいけど、こっちもおいしいよ」
 市の人々が椅子やテーブルを持ち寄って、あっという間にリファとジニアスのためのテラスが完成した。わざわざ柄の美しい布で周囲を覆い、テーブルにもそれを敷いてくれる心尽くしがうれしい。
「この布、南国に位置する島国の特産品だな。色が鮮やかで、軽くて丈夫だ」
 その布を手に取って、ジニアスは目を見張った。
「値も張るんだ」
 ほかの人たちに聞こえないように、ジニアスはリファにそう耳打ちする。
「ああ、そうなんだ。この布には皆の願いが込められているのさ」
 店主がにっと笑う。
「願い? この国のいたるところにこの布が張られているのに理由があるのか?」
 ジニアスが素朴な疑問を口にした。そんなことに気づいていたとは驚きである。リファはまったく気づきもしなかった。
 言われて見渡すと、露店の日よけやお店のカーテンが、目に鮮やかな布ばかりである。
「おお、よくそこに気づいたな」
 店主がうれしそうに笑った。
「俺はビケってんだ。この国で焼き物職人をしてる」
 ビケはにこやかな笑顔で、リファとジニアスに握手を求めてきた。分厚く豆だらけの、働き者の手である。本職は器などを作る職人で、クッキーはなんと趣味らしい。後でレシピを聞こうと、リファは心に誓った。

「百年前、この国は他国の馬鹿やろうから侵略されそうになっていたんだ。残虐な王として有名で、陥落した国の民は奴隷に落とされて、その子供も孫も、一生をその国で過ごすことを強制される国でな。俺のじいさんも戦争に参加したが、なにせアルフレートの五倍は国力があるような国だ。最初から勝ち目なんかなかったんだよなあ。アルフレートの周囲を、何千という兵たちがに取り囲まれた時、弱音を吐いたことのなかった俺のじいさんでも、さすがにもうだめだと思ったそうだよ」
 ビケは茶を飲みながら、祖父からの話を思い出すようにゆっくりと続ける。
「そんなときに、姿を現してくれたのがオオガミ様さ。この国の守り神だな。そのお姿は光に満ちて人間の目にはよく見えなかったらしいが、オオガミ様が大きく一声あげた途端、国が吹き飛びそうなほどの大風が吹いて、すぐそこまで迫っていた敵軍を吹き飛ばしちまったって話だ」
「そのせいで、このあたりの土は枯れてるのか?」
 リファがためらって口に出せなかったひと言を、ジニアスはしれっと代わりに言ってくれた。なにも知らない旅人然としたひと言だったが、ジニアスの言い方にむっとして、ビケはがぶっと茶を飲み干した。
「枯れてはいるが、死んではいねえ!」
 驚くほどの大声である。かわいいエプロンのおじさんの咆哮に、リファもクロマユも固まった。ジニアスだけがわざとそう仕向けたかのように、涼しい顔でビケの大声を受け流している。
 ビケは一転して、穏やかな口調になった。
「植物を育てるのはそりゃ難しいさ。この地は呪われた地だなんだと、他国の奴らは好き勝手言って敬遠するが、俺たちにとってこの地はオオガミ様が存在したことへの証明だ」
 たくわえられた口ひげが、緩やかに笑う。
「オオガミ様がいなければ、俺たちはきっと人間の尊厳もないような生活をしていた。自分は我慢できても、俺の子供や孫、その子供たちまでずっと奴隷にするような国に支配されてたかもしれないんだ」
 その言葉だけで、リファはぞっとした。この世界に奴隷制度が存在するのは知っている。リファだって、六度目の人生で実の親に売り飛ばされた経験がある。
「それを、オオガミ様はその身をもって救ってくれたんだ」
 男の目が、少しだけきらめいている。
「昔は、オオガミ様のところに参って直接お礼を伝えることができたってのに、どっかの馬鹿やろうが騒動を起こしてな。それ以来、それも禁止になっちまった」
 その騒動で死者が出たことを、ビケはリファに伝えなかった。彼が作るクッキーのように、優しい人だ。
「だから俺たちは、この色鮮やかな布でこの国を飾ってんだ。草木は芽吹かねえし、どこ見たって茶色だらけの国だが、この布がきれいに見せてくれる。原色が美しい、元気が出る色だ。そんな布でこの国を飾って、オオガミ様に感謝の念を届けてえのさ。俺たちはあなたに救われた。この地が枯れたことなど、この国の誰も気にしていない。あなたが自分を責めることは、決してないってな」
 ぼろっと音がするような涙がこぼれた。
 リファの目から、そしてリファの腕の中にいる、クロマユの目から。
 それに気づいて、ビケが大げさに慌てふためいたので、周りにいた人々がまたも集まってきた。
「おいおいどうしたお嬢ちゃん」
「ビケが大きな声なんか出すからだよ」
「ち、ちが……。ごめんな、嬢ちゃんたちに怒ったんじゃねえんだ」
「そんな小さなエプロンつけたって、顔が怖くなくなるわけじゃないんだよ!」
「まあまあこの黒いのまで泣いてるよ!」
「あんたもうちの蒸しパン食べな! 元気出るから!」
 ぼろぼろ泣き続けるリファに、ハンカチやお茶のおかわり、貴重な小さな花まで差し出してくれる人が続出する。
 今までこの外見で得してきたことはそれこそあったが、けれどこれは、リファの見た目のおかげなんかじゃ決してない。リファの涙は、なかなか止まらなかった。
 泣き続けて世話を焼かれているだけのリファの横で、ジニアスは笑いながらおばさんたちにもみくちゃにされているクロマユをすくい上げた。
 目も口もない姿だというのに、今その瞳がうるうると震えているのが、なぜだかよくわかる。

「この国は、いい国だな」
 そう笑ったジニアスの笑顔はまるで触れても熱くない炎のように優しくきらめいて、ひどく美しかった。
 クロマユは無理やり握らされた蒸しパンを短い脚で大事そうに抱きしめて、また泣いた。
 ちなみに、邪魔にならないようにとメイドの鏡のように少し離れて話を聞いていたアイとイフも、声を上げて号泣していた。