「くしゅんっ」
 リファは草ひとつ生えていない荒野のど真ん中で、大きなくしゃみをした。
「チキチー」
 すかさずジニアスが右手の親指と人さし指を交差させて、そうおまじないを唱える。
 初めてされたときは馬鹿にしてんのかと憤ったリファだが、よく聞けば彼の国の習慣のようなものらしい。「お大事に」と同義ということだ。
(それにしたってチキチーってなんだ?  某ファーストフード店か? )
 この荒野は比喩ではなく草木一本生えていない、文字通り不毛の大地である。
 遮るものがなにもないこの場所での野宿は、リファにはこたえた。夜眠るときはハンスやクレアが包み込んでくれてぬくぬくで眠ることができるのだが、いかんせんすべてが包まれるわけではない。息をするためひょこっと飛び出した頭を、冷たい風がなでていくたびに、全身はあったかいのに、頭部だけが氷のように冷たいという落ち着けない状態になった。
 そんなリファの頭部に、ジニアスが持っていた布をぐるぐると巻いてくれたのだが、それがふんどしの役割を果たす布だと聞いてから、頭部に巻くのは辞退した。それゆえのくしゃみである。リファはくしゅんくしゅんとくしゃみばかりしては鼻水を垂らしているのに、飄(ひょう)々(ひょう)としているジニアスがこ憎たらしい。

 そもそも、ジニアスが呪いの国への同行を願い出なければ、リファはきっと風邪をひかなかった――きっと、いや、絶対に。


『リファ、大丈夫か?』
 リファは今、コマの兄であるライムギの背中にぐったりと腰かけながら運ばれている。
 リファが背中で大きなくしゃみをするたびに、びくっと耳を震わせるのだが、決して不満を口にしない。それがとてもありがたくてうれしくて、リファはライムギの頭をくしゃくしゃくしゃっとなでた。
 それをうらやましそうに見ているコマが、俺も俺も、とライムギとリファにすり寄ってくる。ぬくぬくした毛玉が近づいてきて自分の脚に顎をのせるのがかわいくて、リファもよしよしと手を伸ばすが、コマとライムギの足がもつれてひとりと二匹で転倒した。
 それをジニアスは指をさして笑い、ハンスは穏やかに見守り、クレアはコマを叱った。
 ドジな弟を笑うほかの兄狼たちに交じって、ふん、と馬鹿にしたような笑いが響いた。
『そんなお荷物を背負っているからだ。歩かせればいいだろう』
 彼はドミニク。真っ黒の毛と、ほかの狼たちより切れ長の目が美しい、冷たい印象の狼である。リファにめろめろのほかの狼たちとは違って、彼だけはリファになでてと甘えてこない、リファに対して意地悪な狼である。群れに突然加わった、か弱く種族の違うリファの存在が、ドミニクは気に食わないのかもしれない。
『ドミニク!』
 途端にクレアの叱責が飛ぶが、ドミニクは気にも留めずさっさと先を歩いていってしまった。
 ボスであるハンスはとくに彼をとがめることもなく好きにさせているので、リファもドミニクに関しては完全にノータッチを貫いている。コマだけが、『ドミニクにいちゃんだってほんとはリファになでてもらいたいくせにー』と無邪気なことを言っている。
「なんて言ってるんだ?」
 ひとしきり笑い終わったジニアスが、リファをそっと抱き起しながらこそっと尋ねてくる。
「お荷物なんか背負っているから転ぶんだ、歩かせればいいだろう、だって」
 リファはドミニクの言葉をそのまま伝えた。
 リファが動物と会話できることを、ジニアスは勘づいているような口ぶりだ。けれど、それを不審に思う様子もなく、リファはひとまずほっとした。

 ジニアスはおもしろそうに炎の瞳をゆがめて、「たしかにな」と意地悪く笑った。リファはむっとして、ジニアスの脇腹にパンチをお見舞いする。ぐはっとわざとらしく痛がったジニアスが、「さすが銀狼とおしゃべりができる女だ……」と茶化した。
 この荒野にたどり着くまで、幼いリファもいたこともあり、一週間ほどかかった。リファの脚であの大きな雪山を越えるのは難しいだろうというジニアスの考えもあり、少し遠回りして、整備された商人や旅人用の道を行くことにしたのだ。リファ自身、あのとんがった山を越えられるとは思いもしないので、この時ばかりはジニアスに感謝したものである。
 その旅人用の道には検問所があったのだが、ジニアスが一枚の通行証を見せるとすんなりと通れてしまった。リファとジニアスの容姿の美しさに見とれていたからというわけではない。
 リファが不思議そうにジニアスを見上げていると、ジニアスはニヤッと笑った。
「長く旅してるとな、たまーに便利なもんを手に入れられるのさ」
 ハンスたちには森のほうへ少しだけ迂回してもらって、リファたちが検問所を抜けた後に合流した。ハンスたちはその優秀な嗅覚をもってして、リファとジニアスの正確な位置をたどったのである。

 それから一日半、針葉樹の多い森を抜けると一気に視界が広がった。
 見渡す限りの不毛の大地である――。
「めっちゃ茶色い……」
 リファの感想はそれだった。見渡す限り、ただの地面が広がっているのである。そのずっと遠くに、ぼんやりと城と街らしきものが見えるくらいで、ひたすらに土、土、土である。
「これだけ見晴らしがいいと、隠れて逃げることもできないだろ? あの呪いの国には一度足を踏み入れてみたかったが、リスクのほうが高くて足踏みしてたんだ。そのうち馬でも買って飛ばすかと思っていたが、まさか銀狼の群れが仲間になってくれるとはな――心強かったよ、助かった」
 ジニアスはそう言って、ハンスのそばに膝をついて頭を下げた。安易に頭をなでたりしないあたり、しっかりと心得ている。
 ハンスに対してリファ以上に敬意を払う態度がほかの狼たちにも好評で、ジニアスはハンスの群れにすぐに受け入れられた。
 ハンスはじっとオッドアイでジニアスを見つめ、彼の心からの礼を受け取っている。
(私は?)
 ふたりの懸け橋としてがんばったのはリファだが、ジニアスにしてみると、ハンスのほうが優先度は高いらしい。まあ、間違いではない。

「五百年前、このあたりは資源の豊富な、湖もある森だったそうだ。しかしその資源を狙って他国が攻め入ってきたとき――あそこの城が見えるか? あの城で奉られていた国の守り神〝オオガミ〟が魔法を使ってこの辺り一帯を敵国もろとも滅ぼしてしまったそうだ」

 敵国もろとも――ジニアスのその言葉に、リファはぞっと背筋が凍った。
 荒野の中央にそびえ立つ城に向かって、恨みつらみを吐く亡霊の幻が見えるようである――その城に向かって歩き出して、今日で二日目になる。道程の四分の三ほどまでは来た気がする。木々も川も谷もないただ広がるだけの荒野なので、まっすぐ直線距離を進めるのはとてもありがたい。とにかく無心で、あの城を目指せばいいのだから。
 そしてその道中で、ジニアスはリファがハンスたちの言葉を理解していることに気づいたらしい。ほかの人間に見つからないように道を迂回するときも、ハンスたちはジニアスの指示に正確に応えたことが、疑問を確信に変えたのだという。
 リファが親元を飛び出したのは、それも理由なのかと勝手に推測して、ジニアスはその一日リファに少しだけ優しくしてくれた。

「へっくしゅん!」
「チキチー」
『チキチー!』
 リファの盛大なくしゃみに、ジニアスがすかさずおまじないを唱えた。それに続いて、コマがおもしろがって繰り返している。遠くで、ドミニクが『馬鹿どもが』と吐き捨てたのが聞こえた。なんやかんやと平和である。
「街に着いたら医者のところに連れてってやるから、もう少しがんばれよ」
 立て続けにくしゃみを繰り返すリファに、ジニアスはそんな優しい言葉をかけてくれた。ちゃっかり、コマの背にお邪魔して楽をしている。
「がんばりま……っくちゅ」
 ズルズルと鼻をすすりながら、リファはくしゃみ交じりに返事をした。それを聞いたジニアスが「がんばりまっくちゅー」とまた茶化している。リファはそれを無視した。
 ゆっくりと進んでいく銀狼一行が異変を感じ取ったのは、それからしばらくしてからだ。
 空は冬らしい澄んだ青空で、ゆっくりと風に乗って真白い雲が流れていく。視界を遮るものがないこの荒野は、空の眺めだけは格別だった。ただし、空と荒野、遠目に城の影くらいしか見えるものはないが。


 しばらく進むと、城からなにかが近づいてきた。
 先頭を進んでいたハンスがいち早く気づき、音もなく立ち止まる。するとほかの狼たちもすぐに立ち止まって群れのボスに従った。リファは彼らの背に載せてもらっているので、彼女も自動的に立ち止まることとなる。
「――誰だ?」
 ジニアスが小さくそうこぼした。
 城から現れたその影はどんどん近づいてきたかと思うと、砂煙を立ててリファたちのすぐに手前で立ち止まった。
 影の正体は馬車だった。美しい黒毛の馬二頭が引く馬車は、漆黒の車体である。窓にも黒いカーテンがかけられ、すべてが黒で統一されている。さながら吸血鬼が乗っているようないでたちだ――そんなに黒が好きなのか、御者まで真っ黒の服に身を包んで、なんと手袋まで黒い。
 その御者がさっと操縦席から降りると、静かに馬車のドアを開けた。
 そこからひとりのいかつい顔の男が降りてきた。黒に近いグレーの長衣に、朱色の刺(し)繍(しゅう)の入った幅広の帯を巻いている。その帯を、二重に重ねられた細いベルトで押さえ、ベルトは無造作に結んで下に垂らしている。着物の帯と帯締めのようである。
 そのいかつい男に手を取られて降りてきたのは、金髪の美しい男だった。すさまじい美形である。リファの少し前を進んでいるジニアスにも劣らない美貌である。
 さらさらと風に溶けてしまいそうな金色の長髪。下から三分の一ほどの場所でちりちりと鳴る小さい鈴がついた黒いリボンでまとめられた髪が二房、両頬を包んでいた。顔は青白いほどに白く、この荒野に咲いた一凛の白薔薇である。先に降り立ったいかつい男の頭二個分は背が高いので、相当な大輪の薔薇だ。彼は馬車同様、全身真っ黒だった。黒い長衣はずいぶんと分厚く、模様の入ったキルト生地のようである。馬車の中は暖かかったのか、外に顔を出した彼が吐いた息がふわっと白くなった。
 髪より濃い金色の瞳が、リファたちを見た。
 言葉も出ないような美人である。
 ジニアスがお行儀悪く、揶(や)揄(ゆ)するように口笛を吹いた。
「美形~」
 感心するようにつぶやいたジニアスに、「お前もな」と、リファは心の中で突っ込んだ。
(イケメンパラダイス……)
 もはやイケメンとひとくくりにすべきか迷うほどの美形である。世界の二大美人が、今リファの前にいると言われても信じてしまう。
 りほだった頃は、ついぞ〝美形〟には縁がなかったが、七回目の人生で美少女の見た目になり、ジニアスと出会い、目の前には新キャラの美形がいる。さらに言えば、ハンスたちもきっと美形の部類に入る。彼らは外見だけでなく、気高く、とにかくかっこいい。
(美形は美形を呼ぶのだ――)
 リファはまたひとつ賢くなった。


「そこの方」
 たいそうな美形が、薄い唇を開いた。
(しゃべった!)
 リファは思わずぎょっとする。
 人形めいた、無機質さすら感じさせる美しさだったので、いきなりしゃべられて驚いたのである。声は体格に合って低く、大型の弦楽器を思わせるような声だ。
「気高き銀の狼を使役するそこの方」
 そういう白薔薇の男は、リファではなくジニアスを見ている。
 ジニアスは、ん?と首をかしげながら、黙って次の言葉を待っている。
「私はアルフレート国の神官、アルバといいます。こちらは次官のアンガッサ」
 白薔薇アルバが優雅に礼をすると、風に溶けそうな金髪がさらさらと流れていった。
 その隣に立ついかつい男――アンガッサも、表情筋ひとつ動かさないまま頭を下げた。
 ジニアスは首をかしげて、乗っていたコマからゆっくりと降りた。
「アルフレートの神官?」
 その声はいぶかしげである。
 ちなみに後で聞いたところによると、アルフレートには〝高貴な狼〟という意味があるらしい。
 コマは不穏な雰囲気から遠ざかるように、リファのところにやって来て、わふ、と膝に顎をのせてきた。それをなでてやりながら、リファは事の顛(てん)末(まつ)を見守ることにした。
 というか、訳がわからないので口を出す勇気もない。
 あと寒い。猛烈に寒気がする。

「……その様子だと上の位の神官みたいだが、なぜそんな人間が?」
 ジニアスはアルバに対して不信感をあらわにした。それに対して、いかつい顔のアンガッサがなにか言おうと口を開くが、アルバが手を上げてそれを制す。
 命令し慣れた人の仕草である。リファはこの容姿のせいで、貴族の館へ招かれることもあったが、大抵の貴族たちがその手の振りひとつで使用人たちを動かしているのをよく目にした。
「我々は守護神オオガミを奉る一族でありますゆえ――。群れをなすといえど、孤高に生きる銀狼を使役する者など今まで見たことがありません。あなたたちの姿を見て純粋に興味が湧いたのです。よければ、城でお話を聞かせてはくださいませんか」
 お話もなにも、話せることなどなにもないのだが。
 リファは全身を襲う寒気に耐えきれず、ライムギの背中の上にゆっくりと上体を倒した。コマが心配そうに濡れた鼻をくっつけてくる。ハンスはジニアスと共にアルバとの話を聞いているようだが、クレアは後は任せると言わんばかりにリファに駆けよってくる。ほかの仲間たちが隙なくアルバたちを警戒している。
「守護神オオガミ? 呪われた国のアルフレートの神官が、狼を引き連れた俺たちを招いてなんの話を聞くつもりだ? あんたたちの守護神オオガミの好物は、こいつら 狼だろうが」
 ジニアスの言葉に、リファはびくっと顔を上げた。
(狼を、食う……!?)
 まさかの話に、リファは寒気に耐えながら聞き耳を立て続けた。

「――貴様、我々アルフレートの神を侮辱するのは許さんぞ!」
 ジニアスの慇(いん)懃(ぎん)無(ぶ)礼(れい)な物言いに、さすがにアンガッサが声を荒らげた。
「侮辱してるわけじゃないさ。ただ、俺があんたたちのカミサマについて知っている話をしてるだけ。……もし間違いがあったんなら謝るが?」
 ジニアスはあくまで無礼である。
「謝罪は必要ありません。事実ですので」
 ジニアスの無礼を物ともせず、アルバは穏やかな顔でそう受け流した。それがまた怖い。美しいふたりの男の間にバチバチと火花が散っているように見えて、リファはさらに具合が悪くなるのを感じた。
「ところで、お連れの方は体調がすぐれないようですが」
「あんたらのカミサマがここらいったい荒れ地にしちまったから、風がしのげなくてな」
 ジニアスの失礼さがレベルをカンストしている。
「それは失礼を。よければ我が城で看病いたしましょう」
「ありがたい申し出だが、この銀狼たちが懐いているのはこの娘でな。そんな娘を城に入れたところで、あんたちが危害を加えないという保証があるか?」
 銀狼を従えているのがリファだと知って、アルバとアンガッサが驚いたように息を吐いた。その驚きには、リファのような少女が、という思いと、ジニアスに対して、お前は当事者じゃないくせにこんなに偉そうだったのか?という驚きが混ざっていそうである。
「そうでしたか――てっきりあなたが銀狼たちを従えているのかと。……とはいえ、彼女を使ってオオガミの餌でも集めようなどと、微(み)塵(じん)の考えもありませんよ」
 そう即座に返せるアルバが怖い。微塵も考えていなければ、言葉にすら出ない発想では? とリファはどんどん気持ち悪くなっていく体で考えた。登場して五分でこのただ者じゃない感のアルバが怖すぎる。
「どちらにしても、彼女には看病が必要では?」
 アルバの言葉に、ジニアスはやっとリファを振り向いた。ライムギの背中でぐったりしているリファを認め、ジニアスはいささか慌てる。
「おい、さっきよりあきらかに悪化してるじゃないか」
 ジニアスの大きく節ばった手がリファの額に触れる。それがひんやりと冷たくて、熱いのに寒いリファはぶるっと小さく震えた。
(……うまく息もできなくなってきた。ジニアスたちの声が、うまく聞こえない)
 まさかここで死んでしまうのか?
 せっかく六回の人生とはあきらかに違いがある美少女として七回目の人生を迎えたというのに。
「私は医学の知識がある。診よう」
 アンガッサがそう言って前に踏み出したが、ハンスが音もなくそれを阻(はば)んだ。
 うなることもなく、静かにアンガッサを阻むハンスに、アルバがほう、と感嘆の息をのむ。
「本当に彼女を守ろうとしている――これは興味深い」
 決して興味など持ってほしくない人間に興味を持たれた気分である。
「害を加えるつもりはない。早くしなければ彼女がつらいだけだぞ」
 リファのことなど微塵も興味がなさそうなアルバに対して、アンガッサはいかつい顔のわりに人道的である。
 大きな狼に怯(ひる)みながらも目線を逸らさないアンガッサに、ハンスはやがてすっと道を開けた。アンガッサはすぐさまリファのもとへと急いだ。
「熱が高い。ただの風邪だろうが、このような場所では治るものも治らんぞ」
 アンガッサの脅迫めいた言葉に、リファは城へと運ばれることとなった。