聖女の術を使うと言ったら、アレクセイは出発は明け方にしようと提案してきた。確かに大がかりな術になる。休んでおいて損はないだろう。
 おとなしく一晩休み、夜が明けきらぬ朝、外で待っていたアレクセイと合流した。皆がまだ寝静まっている中、二人の出立は鳥たちだけが見送っていた。

 ◇◆◇

 一度は国外追放にしたくせに、都合が悪くなったら連れ戻すなんて、随分身勝手な言い分だ。当然のように目の前に現れたルミール王太子の顔を思い出すだけで、心がささくれ立つ。

(何よもう。あんたの本性は知っているんだから)

 今さら、協力してやる義理も義務もない。元婚約者だからと大きな顔をされても迷惑だ。
 冤罪で婚約破棄を企んでいた時点で、淡い恋心は粉々に砕け散ったのだから。
 けれど――民は悪くない。れっきとした被害者だ。
 瘴気は吸えば吸うほど、体を蝕んでいく。黒い邪気は生活を脅かすまがまがしいものだ。森から動物たちを追い出し、都市から人が消え、行く先がない者たちだけが犠牲になる。
 弱い者たちだけが助からない。
 そんな不平等なことがあっていいわけない。

(私が助けるのは母国と竜王国の民。絶対、助けてみせる)

 もう悩んでいる時間はない。
 大聖女とは名ばかりで、自分の力なんてちっぽけなものだと思っていた。ただ歌を口ずさんでいただけで死にかけていた植物が息を吹き返したのも、奇跡が偶然重なっただけだと思い込もうとした。
 本当は聖女なんて肩書きはいらなかった。ただの女の子に戻りたかった。
 でももう、そんな子供の言い訳をする時期は過ぎた。子供の殻を破り、大人にならないといけない。嫌なことから目を背けていては成長できない。
 だから、後ろばかりを見ている自分とはお別れする。今からは前を向いて生きていく。

(過去ばかり振り返る日は昨日でおしまい)

 黒竜はぐんぐんと空高くに上昇し、あっという間に雲と同じ高度まで来る。振り落とされないよう硬い鱗をつかんだ。
 おそるおそる目を開き、フローラは左右を見渡した。

(わぁ……! 遠くまでよく見える……!)

 視界を遮るものは何一つない。地平線の先まで見通せる。ふと真下を見下ろせば、地上の建物がミニチェアのように小さくなっていた。
 それにしても、風圧が思ったよりすごくて、髪の毛が全部後ろに流れている。正直、いつ落ちても不思議ではないが、もし落ちたとしても必ず助けてくれるという根拠のない確信があった。

(アレクが竜王様だったなんてびっくりだけど、守ってくれた事実は変わらない)

 彼は信じられる。ルミール王太子とは違う。だから、同じことは起きないはずだ。
 目指すのは瘴気が一番濃いエリアに近い国境だ。
 空の上からだとよくわかる。黒い瘴気のあるエリアとそうでないエリアの境界線が、線を引いたみたいにくっきりと分かれている。何の違いかと目を凝らしたら、瘴気がない場所は教会や宮殿の周囲だった。
 聖なる力で見えない防御壁を作っているのかもしれない。

(でも、本当に私にできる……? こんなにたくさんの瘴気を消したこともないし、瘴気で毒された人たちを助けたこともない)

 背が高い黒い木が連なる森の上を旋回しているのに気づき、フローラは真下を見やる。

(なんて大きな木……ずっと昔からここで生きているのね)

 少し先にある開けた場所にゆっくり下降し、アレクセイが屈む。フローラは長い胴体から地面に降り立った。
 暗かった東の空が白み出している。薄雲のかかった群青の空を頂点にし、紫とピンクのグラデーションがかかっている。地平線の向こう側では白い太陽が小さく見え隠れしていた。
 まもなく日の出だ。

「フローラ……どうする気だ?」