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 ハルさんと同居を始めたとき、彼から婚約者役をする見返りとして住む場所以外に提示されたのは、食費と学費の提供だった。
 住む場所と食費はありがたく享受しているが、学費については断った。

 そのため、短期バイトを入れることはなくなったが、カフェでのバイトは続けている。


「優羽さん、掃除終わりました」

「ありがとう。お客さん来るまで休んでて」

「はい。あ、でも先に表に看板出してきます」


 この店で働くのは好きだ。優羽さんは良い人だし、甘いものに囲まれて仕事ができるというのは楽しい。

 私は優羽さんが手書きした、黒板風のおしゃれな看板を出しに店の外に出る。

 今日の日替わりランチはパスタとサラダのセットか。新商品のあんずジャムとワッフルのセットも食べてみたい。バイト終わりに注文してみようかな。

 そんなことを思いながら店内に戻ろうとしたとき、後ろに人の気配を感じた。


「あなたが直島夏怜様ですね」


 私の名前を呼んだのは、どこか無機質で感情の感じられない男性の声だった。

 振り返ってみると、そこには今聞いた声に似つかわしく無表情で、スーツをきっちり着こなし黒い縁のメガネを掛けた三十歳前ぐらいに見える男がいた。

 手には写真のようなものを持っていて、それと私を交互に見比べている。


「……どちら様ですか」


 この男性のことは全く見覚えがない。少し警戒しながら聞き返す。


「木坂家にお仕えしている橋岡と申します。決して怪しい者ではございません」

「キサカケ?……知りません。人違いだと思います」

「いえ、間違いではございません。木坂の名を知らないということは、あのお方から詳しい話は聞いていらっしゃらないのでしょうね」