「ここはすべての生き物を安全に死まで運ぶ電車なんです。安全に行こうとしないなら……わかりますよね?」
 首の後ろで縛った白髪が風になびいている。緑の猫目が皮肉げに細められていた。
 オーナーと、撫子は口の中でつぶやく。
「人間の一人や二人で、死の列車は止められませんよ。くだらない企みに乗せられましたね」
 動物たちが誰も落ちなかった結果が、何よりオーナーの言葉を証明しているようだった。
 自分だけで脱線を止めようと焦って列車を走り回った撫子は、この列車をよく知る者からしてみれば空回りに見えたに違いない。
「さあ、私の求婚を受け入れなさい。下の川は死への最短距離です。死にたくはないでしょう?」
 でも、この脅迫にうんって言うのも違う。
 撫子はずっとひっかかっていた。どうして脅されなければいけないのかと。
「「はい」の一言でいいんです」
 オーナーの笑顔が少しひきつった。
「早く」
 撫子は電車の脱線には反対したが、人間のプライドまで放り投げたつもりではなかった。
「あ」
 そういう難しいことを考えるにも、時間切れだった。選ぶよりも先に手の力の方が尽きた。
 撫子の手は窓枠からあっさりと離れて、体が宙に投げ出される。
「ちっ!」
 オーナーは優雅な笑顔からは不似合いな舌打ちをして、屋根の上から体を乗り出す。
 彼は撫子の手をつかむと、その細身の体からは信じられない力で引き上げた。
 目が回ったのは一瞬。次の瞬間には、撫子は屋根の上でオーナーの腕の中にしっかりと収まっていた。
「……どうも」
 惜しみない拍手を送るには手がしびれきっていたので、撫子はあまり力の入らないお礼を告げた。
「なぜ死にたいんです? それほど私と婚姻を成すのが嫌ですか」
 オーナーは口の端を下げて猫の耳を伏せる。
 初めてオーナーが笑顔以外の表情を見せたことに、撫子は不意をつかれた。
 温かい腕に包まれて体が自然と安心する。脱線と聞いてからずっと緊張しっぱなしだったから、この世界が暖かいのか寒いのかもわからないままだった。
「な、撫子?」
 撫子はじわっと目がにじんで、涙をあふれさせる。
「どうしたんです。泣くようなこと」
「脅迫ばかりやめてください!」
 撫子は泣きながら、わがままを言うように怒る。
「死んだなんてまだ全然実感わかないのに。オーナーも貨物車両の人たちも、死にたくないなら従えって。怖いし、でも私だって奴隷じゃない」
 しゃくりあげて、撫子はきっとにらみつける。
「答えろって言うなら答えてやりましょうか! 「やだ!」 結婚しません。絶対にやだ! オーナーの言ってること、あの人たちとおんなじでしょ!」
 後は言葉にならなかった。子どものように泣きじゃくる。
 いっそ助けてくれなければよかった。貨物車両の人たちのように、撫子を馬鹿にして、従わないなら暴力を振るう。生きていた頃のことはあまり覚えていないが、そういう人たちにはたくさん会った気がする。
 撫子はそういう人たちを相手にするのも慣れていたと思う。低体温でやりすごすだけで、簡単だった。
 でもオーナーは撫子に手を差し伸べて、その手が温かいものだったから……本当は撫子が熱い性格だということを、自分で思い出してしまった。
 ふいにぎゅっと抱きしめられて、撫子は喉をつまらせる。
 見知らぬ人に包まれているのに、体が安心しようとしている。撫子はそれに気づいて、何か得体の知れないところに来てしまった心地がした。
「怖がらせてしまいましたか。早く途中下車させようと急ぎすぎました。私のせいです」
「は、離してください。ち、違います。怖くなんかないですってば……!」
「撫子、愛しています」
 撫子は耳を疑う。収拾のつかない気持ちの束に振り回されているせいで、耳まで変になったのかと思った。
 思わずオーナーを見上げると、彼はまぶしいものを見るように撫子をみつめていた。
「本当です。でもきっと今はまだ信じてもらえないでしょうから、私に少し時間をくれますか」
「時間?」
「そろそろ速度が落ちてきましたね。あちらに駅が見えますか?」
 撫子は首をめぐらせて目を見張る。
 暗闇の中に浮かぶレトロな駅舎、そこから銀色のアーケードが続いている。
「……え」
 撫子はその先にお城を見た。
 生きていた頃、洋館というものに入った経験くらいある。歴史の写真で、海外の名だたる宮殿だって見た。
 でもその建物は撫子の思う、理想のお城だった。優雅な白い猫のようなすらっとした形で、白亜の壁と窓枠にはめこまれた緑の色石が鮮やかだった。
「あちらは私の仕事場。駅直結、思い立ったらいつでも電車に乗れます」
 オーナーもそちらを見て、また撫子に目を戻した。
「撫子、あそこで休暇を過ごしてみませんか? その暮らしが気に入ったなら、私の求婚を受け入れてください」
 撫子は生前に住んだ数々のぼろアパートを思い出していた。
 どこも住めば都と自分に言い聞かせてそれなりに満足して暮らしていた。けれど一度でいいからお城みたいな所に住んでみたいと願っていた。
 撫子はつい夢みたいなことを考えて……ぶんぶんと首を横に振る。
「やめてくださいって! 欲に目がくらんだらどうするんですか。そんな奥さん欲しくないでしょ?」
「欲しいと言ったら?」
 速度はだいぶ落ちてきていて、ついに列車が停車する。オーナーは撫子を抱えたままひらりと屋根から飛び降りる。
 一瞬、撫子の額にオーナーの唇が触れた。じんわりとそこが温かくなって、撫子は慌てる。
「な、なにしてんですか!」
「今、うなずきかけたでしょう」
 オーナーはくすくす笑って、撫子をそっと地面に下してくれる。
「隙だらけです。お馬鹿さん」
 オーナーは撫子の手を取って歩き出す。
 撫子はオーナーの完璧な笑顔を見て、手を振り払うきっかけをなくしてしまった。いやいやその、とか、うなずいてないですよ、とか言いながら、改札まで連れて来られる。
 改札の車掌はオーナーの顔を見ると笑顔で道を開けた。ついで撫子の額を見て訳知り顔でうなずいて通してくれる。
「次電車に乗るのは、新婚旅行のときにしましょうね」
 駅直結は嘘ではなかった。アーケードを渡って一息もつかない内に、扉の前に来ていた。
 色とりどりの色石が埋め込まれた扉に撫子がちょっとみとれると、オーナーが軽くノックをする。
 音を立てることもなく、扉は内から開き始めた。
「ようこそ、キャット・ステーション・ホテルへ」
 猫の耳を持つ双子らしい少年二人が、そっくりの声で撫子を出迎えた。