その後羽野は渡米の準備で忙しく、壮行会が開かれたのはフライトの2日前。海外営業部と営業部の合同主催だったが、雫も招待された。

 なぜに?と思いながらも当然いつものように断るつもりでいたら、崎本に頼み込まれた。

「沙和子も出席するし、安藤さん今回は出席してもらえないかな?」

 今回の壮行会の出席者は大半の営業部の男性。そんな輩の中に付き合い始めたばかりの可愛い彼女を出席させるのがよっぽど心配らしい。沙和子の隣に雫がいれば、少しは安心出来るということか。
 いつもは落ち着いた物腰の崎本がこうしてわざわざ頼みに来るなんて。
 少し照れたように笑う崎本。それほど沙和子が大事なんだと嬉しくなってしまう。

 雫だって沙和子が大事だ。今回は出席しようと決めた。





「雫、こっちこっち!」

 沙和子が手を振って雫を呼ぶ。

 羽野の壮行会の席、既に場は盛り上がっていた。雫は気配を消して会場に入る。
そもそも地味なので目立たないはずだが。

 今日中が締め切りとなっている書類があって仕事が立て込んでしまった。慌てて終わらせて会場に到着したのは会が始まって30分ほど過ぎたころだった。

「隣、確保しておいたから」

 沙和子は清楚なホワイトとネイビーの切り替えワンピースを着ており、今日も綺麗だ。

 雫はというと、カットソーにブラックの膝丈スカート、上にグレーのカーディガンを羽織っている。いつもの地味なオフィススタイルのままだ。

「ありがとう」

 ホッとして沙和子の隣に腰を下ろす。

 雫は元々家族や親戚以外の男性と関わったことがあまりなく、なんとなく苦手意識もあったのだが、高校生の時の出来事でそれが決定的となった。

 仕事と割り切れば普通にしていられるのだが、仕事以外で距離感が近いと途端にガチガチに固まってしまう。

 沙和子はそれを知っているので、自分の隣の端の席をあけておいてくれたのだ。


 雫はグレープフルーツサワーをオーダーし、こっそり沙和子と乾杯して飲み始める。空きっ腹にアルコールが染みる。

「王子、モテモテだねー」

 沙和子の視線の先には今日の主役の羽野がいて、数人の女性に囲まれていた。
彼女らはここぞとばかりに話しかけている。

 彼は柔和に微笑みながら卒なく相手をしているようだ。

「見納めになるからね。別にどうこうしたいって訳じゃないんじゃない?」

「まぁ、5年後には青い目のお妃様を連れて帰ってくるかもしれないしねぇ」

 あれだけのルックスだ。アメリカでもモテそうだ。沙和子の言うようになってもおかしくないな、とぼんやり見ていたら不意に羽野と目が合った……気がした。

 彼は嬉しそうに破顔する。

「……!」

 思わず顔が赤くなってしまった。彼の笑顔が自分にだけにしか見せない特別なもののような気がして。

(そんなはず無い。イケメンは罪作りだわ。こうやって勘違いした女子が不幸になっていくのね)

 自分は勘違いなどしないけどと思いつつ、雫は慌てて目を逸らし、誤魔化すようにグレープフルーツサワーを飲み干した。



 会は和やかに進み、羽野の挨拶と部長の一本締めをもって無事終了した。

 雫は終始沙和子と話ながら時間をやり過ごす事が出来た。

 ちなみにだが、課長として遠い席には居つつも発せられる崎本の無言の牽制を感じながら、沙和子にむやみに接触しようという猛者はいなかった。雫の見守りミッションは問題なく終了だ。

 飲み会と言うものに出席したのは入社後研修最終日の合同歓迎会以来だった。



「あ!」

 沙和子と一緒に店から出てすぐ、雫は思わず声を上げた。

「どうしたの?」

「性能確認会議の資料、ミスったかも……」

 会社を出る直前までる作っていた資料のデータが最新版になっていない気がする。

 開発部から提出されてきたのが遅かったため、そこだけ後で差し替えようと思っていた。壮行会に行く為慌てていて忘れてしまったようだ。、

 性能確認会議は製品の生産に移って良いかを確認、決定する社内でも重要な会議で社長以下担当役員も出席する。

 開発部や品質保証部からデータが提出されたものを会議用の資料にまとめる役割を雫が行っていたのだ。

「私ちょっと会社に寄って確認してくるよ」

「え、今から戻るの?大変じゃない。来週やればいいのに」

 沙和子は心配してくれるが、会議は月曜の午前なので確実に修正しておきたいし、土日に出勤するのは、人事への届け出などの手続きが面倒だ。

「近いし大丈夫だよ。資料確認して差し替えるだけだから」

 幸いこの店が会社の3つ隣のビルなので歩いて5分かからない。まだ20時過ぎだし戻って片付けた方が週末気にしなくて済む。

「そういうとこキッチリしてんだよねぇ、雫は。真面目というか。そもそも飲んだタイミングで思い出すよね」

 やれやれと沙和子は肩をすくめる。

 確かにそうだ。でも気になることはきちんとしておきたい性格なのでしょうがない。

「沙和子は崎本さんに送ってもらってね」

「わかった。雫も気を付けてね。帰ったら連絡してよ」

 まだ少し心配そうな沙和子を崎本に託してからふたりに見送られ、足早に会社に向かう。



 久々に飲んだアルコールのせいか体が火照っていたので、夜風が気持ちいい。

 ホッとため息をつきながら空を見上げる。連なるビルの間から月が見え隠れしている。

(そう言えば羽野さんに挨拶出来なかったなぁ)

 きっと二次会に向かっている頃だろうか。明後日の日曜がフライトらしいので、帰国するまでは会社で顔を合わす事も無いだろうが、壮行会の間、常に人に囲まれていた羽野にこちらから話しかけるのは難しかったのでしかたない。

 むしろ仕事での接点もなかった雫があの場に居る事をおかしく思ったかもしれない。



 会社に到着しエレベーターで居室のある14階に上がる。他の階には他の部署のメンバーが残っているようだが今日に限ってこのフロアは誰も残っていないようだ。

 雫はパソコンを立ち上げ、資料を確認する。

「あー、やっぱりだ」

 データが仮のものになっていた。最新版になっていない。

 提出されたファイルに差し替え、念の為他の資料も全て最新版かどうか確認する。その後ネットワークの共有フォルダに上書保存する。これで一安心だ。

 居室の時計を見ると20時30分になろうとしている。居室の明かりを消し廊下に出ると電灯が3つ4つ点いているだけで薄暗い。

「……あぁ、なんか今頃酔いが回ってきちゃったかな」

 立ち止まって独り言ちる。

 ホッとしたせいか今更になってぼんやりしてきた。ここの所の忙しさで睡眠時間も少なかった。
 その上、空きっ腹に飲んでしまったので自分で思う以上に酔ってしまっていたらしい。こんな状態で会社にいるのは褒められたものじゃない。

 
 帰ろう。そう思った時だった。


 背後からいきなり肩を掴まれる感覚を覚えた。

「!!!」

 体中の皮膚に寒気が走った。悲鳴が声にならない。

 頭で考えるより前に体が動いた。

 無我夢中で恐怖を振り払うように足を踏ん張る。瞬間的に尋常でない力が体に宿る。体に覚えこませておいた動作だった。

 バタンという妙に乾いた音がする。勢いで髪を纏めていたバレッタが外れた。

 視線の先に振り払ったつもりの何かが投げ出されている。



(……はのさん?)



 羽野がいた。投げ出された格好のまま、呆気にとられた顔でこちらを見上げている。

 雫は上から覗き込むような状態になっていた。

 (へぇ……整った顔の人ってびっくりしてもイケメンなのね)

 なぜか感心しながら、至近距離にある彼の顔をどれくらい眺めていただろうか。もし周りに人がいたならふたりは見つめ合ってるように見えただろう。

 徐々に頭がはっきりしてきた雫は次第に自分の状況を把握する。


「……えっ?」


 自分は覆いかぶさるようにして左手で羽野の胸倉を掴んでいるでは無いか。雫は慌てて手を放し、弾かれたように羽野から離れる。

「あっあのっ……」

 これはまずい。非常にまずい。ジリジリと一歩ずつ後ずさると同時にパニックに陥っていく。

「安藤さ」

「ご、ごめんなさいぃっ!!」


 何か言いかけた羽野に背を向け、雫は脱兎のように走り去ったのだった。