まだ少し肌寒い季節だったはずなのに、暖かい風が空を自由に駆け巡る。
 誰かが暖房でも入れたのだろうか? そんな疑問を頭の片隅に感じながら、めぐみはうとうとと意識を覚醒させていく。

 ――んっ?

 自室でのんびり昼寝をしていたのは、伊藤めぐみ。十六歳の女子高生で、今日は学校が休みのため家でゆっくりと過ごしていたのだ。
 しかしすぐに、通常ではありえない自分の状況に目を見張った。

「え? え、え、えっ!?」

 通販で購入したお気に入りのベッドでぬくぬくしていたはずなのに。
 めぐみの体は不安定にも――空中にあった。否。落下していた。

「うそぉっ!? 嘘、なんでっ!? きゃああぁぁぁぁぁああぁぁっ!!」

 手をばたばた動かして「飛べー!」と念じてみるが、もちろん飛ぶはずがない。パラシュートが付いている可能性を考慮して背中を見るが、そんなものは付いていない。

 ――どうしよう! どうすればいい!? 

 距離にして地上までは一〇メートル程度だろうか。めぐみは少ない頭で思考をめぐらせようとはするけれど、突然の状況にパニックになるしかない。
 しかし無常にも、体は落下を止めず地面へと音を立てて――落ちた。

「きゃぁっ!! うぅ、痛……く、ない?」

 衝撃を覚悟していたはずなのに、思っていた痛みは訪れなかった。
 めぐみが不思議に思えば、くすくすと笑う優しい声が聞こえる。そう、めぐみの下敷きになっている人物から。

「大丈夫?」
「え? あっ、はい――……」

 慌てて声がした方を振り向けば、めぐみの視界はその人に占領されてしまう。
 さらさらと輝く金色の髪と、青色の瞳。それは誰もが見惚れてしまうような男性で、めぐみも例外ではなかった。
 まるで本の中から出てきた王子様。軍服に似た豪華な服装は、さらにそれを強調させた。
 そしてはたと、めぐみは大事なことに気付く。この男性をクッションにしてしまったため、自分に痛みがまったくなかったことに。

 ――優しそうに笑っているけれど、このイケメンさんは怪我をしていないだろうか?
 めぐみはすぐに退いて、男性の全体を見る。見た目には、特に怪我はない。けれど、体を打ち付けたりしてしまっている可能性は高い。
 すぐに謝罪の言葉を口にし、大変申し訳ないことをしてしまったとめぐみは肩を落とす。

「本当にすみません……。怪我とか、大丈夫ですか?」
「このくらいの衝撃で怪我なんてしないよ。それよりも、貴女に怪我がなくて良かった」
「そ、そうですか……」

 金髪碧眼の男性は、めぐみを安心させるように優しく微笑んだ。
 いやいや、そんなわけないでしょう! と、心で思うが圧倒的な雰囲気に呑まれてめぐみは言葉に出来ない。

 めぐみと男性が居る場所は――木々に囲まれた森の中だった。
 ちょうどすっぽり空いた空間で、中央には小さな泉がある。自宅で昼寝をしていためぐみは、どうしてこうなったのかと頭に疑問符を浮かべることしかできない。
 おろおろと混乱をしていれば、男性がおもむろに立ち上がった。

 ――もしかして、帰ってしまうのだろうか。
 そう不安がよぎったときには既に遅し。めぐみは考えるよりも先に手が動き、男性の服をがしっと掴んでしまっていた。懇願するように「見捨てないでください!!」と声も上げて。
 それを見て一番驚いたのは、男性だ。目を何度か瞬いたあと、微笑みながら首を横に振った。

「私が貴女を? まさか、見捨てたりするわけがない。私は、セレイツ。貴女を――召喚した者だ」
「え?」

 森の中に見捨てられることはない。それだけはめぐみにも分かったが、どうやらことはそれだけではないようだった。
 分かったことは、落下しためぐみを体で受け止めてくれた王子様の名前がセレイツということ。
 そして、どうやらめぐみがこの森に居るという原因自体もセレイツにあるということ……。

 ――しょうかん、商館、召還、いや……召喚?
 めぐみが「むむむ?」と考え込めば、ふわりとセレイツが優しく微笑む。そのままあやすようにめぐみの頭を撫でて、「会いたかった」と嬉しそうにする。
 当のめぐみは怪訝そうな顔でセレイツを見るが、彼は気にする様子もなくちゅっとめぐみの手の甲へと口づけて言葉を続ける。

「貴女の名前は?」 
「……伊藤めぐみです」
「イトウ?」
「えっと、名前はめぐみです。めぐみって、呼んでください」
「めぐみ、だね。可愛い名前だ」

 手の甲へ口づけなんて、ドラマのようなことをされたことのないめぐみは一瞬で顔を赤くする。加えて、セレイツはとても美しい男性なのだ。緊張しないほうがおかしい。
 甘い声で名前を呼ばれ、めぐみの心臓はどきどきと高鳴っていく……。しかしこれでは恥ずかしさで溶けてしまいそうだと、セレイツへ疑問を投げる。

「あ、あの……。ここが、どこだかわからなくて。それから、召喚したってどういうことですか?」
「ここはノストファティア大陸。改めて――私は セレイツ・ツェリ・ノストファティア。この国の王子であり、めぐみを必要としている光の勇者だよ」
「王子、様……?」

 ――ノストファティアなんて、日本にはない。というか、地球規模でも聞いたことがない。
 まるでゲームだ。めぐみがそう思っていれば、セレイツが空を見るようにと言う。見れば、ぽうっと浮かんでいる魔法陣がそこにあった。
 めぐみが驚愕して目を見開いた次の瞬間――魔法陣から、すとん、とうさぎの人形が落ちてきた。ふわふわもこもこの、めぐみがベッドに置いて大切にしているうさちゃん人形だ。
 綺麗に空中を落下しているのを見て、めぐみは慌ててそれを受け止める。

 魔法陣は、うさちゃん人形が落ちてきてすぐに消えてしまった。

「あの魔法陣を使って、私がめぐみをこの世界に召喚したんだ」
「……つまりここは、日本じゃないんですね。帰れるんですか……?」

 ゲームや漫画のように、勇者として召喚されるなんて思ってもみなかった。めぐみは不安になるが、セレイツが「帰るまでは私が責任を持って守るから」という言葉に安堵する。
 このまま日本に帰れないなどという展開にならなかったことは、不幸中の幸いだろう。

「良かったぁ……」

 ぽろり、と。
 帰れることを理解しためぐみは、無意識のうちに瞳から大粒の涙をこぼした。友人に、家族に、もう会えないのではないかという不安はめぐみ自身が思っていたよりもとても大きかったのだ。
 そんなめぐみをあやすように、セレイツは「ごめんね」と彼女を抱きしめる。その体温はとても温かくて落ち着くのだが――イケメンに抱きしめられた衝撃でめぐみの涙はひっこんでしまう。

 セレイツは、めぐみを安心させるように今後のことを少し話す。
 勇者でもある自分と一緒に、魔王を倒す旅に出て欲しくてめぐみを召喚したこと。「必ず守るから」と、熱い瞳で見つめられためぐみは、こくりと頷くしか出来なかった。

 ――勇者ポジションだなんて、まさにゲームだ。どきどきしてしまう。
 めぐみに戦う力はないけれど、特殊能力でも備わっているのだろうか。そう疑問に思い、しかしめぐみはそこである事実に気付く。
 目の前にいるセレイツこそが、勇者ポジションではないのかと。

「でも、勇者はセレイツさんですよね。なら、私は必要ないんじゃ?」
「ああ――めぐみは、聖女だよ。回復魔法で私を癒してくれる、大切な存在だ」
「……!」

 ――回復魔法? でも、魔法なんて使うことは出来ない。
 一瞬にして、めぐみの頭は不安でいっぱいになった。「でも、私は聖女じゃないですよ……?」とセレイツに告げれば、「そんなことはないよ」と優しい笑顔を向けられる。

 言うが否や、セレイツは持っていた短剣で自分の手を小さく切る。もちろん、流れ出るのは赤い血だ。
 いきなりの行動に「ひぃっ」とめぐみが声を上げるが、セレイツは気にせず傷の出来た手をめぐみに見せて、「治してごらん」と言う。

 ――なんて酷い無茶振りをする王子様なのか。
 思わず心の中で悪態をついてしまっためぐみだが、致し方ないだろう。まさか聖女ではないと告げてこんな展開になるなんて、誰が予想出来ただろうか。
 ぶんぶんと首を振るめぐみに、「大丈夫」と微笑んでセレイツが魔法の使い方を教える。

「めぐみ、ヒールと唱えてごらん」

 ヒールとは、ゲームなどでよく使われる回復魔法の名称だ。
 確かに、回復魔法がヒールということに筋は通っているなと、めぐみ妙な納得してしまう。しかし、発動をしなかったらとてつもなく恥ずかしいだろうということも理解出来る。
 漫画の技に憧れた小さい子供が、ごっこ遊びをするようなものだろうか……。

 しかし、セレイツは期待を込めた目でめぐみを見る。
 きらきらとするその瞳に見つめられては、ヒールと言うだけの行為が出来ないとは言い出せなかった。めぐみは小さく息をはいて、セレイツの傷に手を添える形にしてその言葉を紡ぐ。

「《ヒール》」

 しかしどうしたことか――……。
 めぐみヒールと唱えた瞬間、セレイツの傷はすっと消えた。赤く血で汚れていた肌は、なめらかな綺麗な肌へと戻ったのだ。

 ――まじか! 驚きすぎて、声がでない。

「うん、綺麗に治せているね。良かった」
「は、はい……」

 どうやら私は、本当に聖女のようです――……?