僕はその若い女性を麦と呼んだ。


麦は優しかった。


僕が解けない数学の問題をいつの間にか解いておいてくれたし、お腹が空いたなと思いながら眠りにつけば、目覚めた時にはいつも湯気の立つ温かい料理が用意されていた。


麦は口数が多い方ではなかったけれど、麦の纏う空気は絹のように柔らかく、僕はそんな麦が大好きだった。


その麦が泣いていた。


「私は君を殺してしまうのね」


心が苦しかった。


今すぐに麦を抱きしめてあげたかった。


だけど僕は彼女に触れられないし、そんな力も残っていない。


「また、お別れしなくちゃならないのね」


僕たちは別れの痛みをよく知っていた。


この世界に生まれた時から、ずっと別れを繰り返してきた。


その順番が僕に回ってきただけのこと。


だから安心して殺すといい、と僕は小さく笑った。


そんな僕を見て、麦はさらに顔を歪める。


けれどすぐに深呼吸をして、慈しむような表情で笑った。


「君に出逢えてよかった。………さようなら」


麦は僕を抱き締めた。


体の先から空気に溶けて、感覚が静かに消えていく。


そして麦は、誰よりも優しい殺人者になった。