春の足音はまだ遠くて小さい、花月の夜。

さっきまでひんやりとした冷気が俺たちの間を通り抜けていたが、今は手の平で繋がっていて、彼女の体温を感じられる。

森次花乃は目立つタイプではないが、とても真面目で器量がよく、なかなか度胸のある子だ。

地味でおとなしい印象とは裏腹に、言うべきことはしっかりと口にする。誰かと群れたり常にニコニコしている感じではなくとも、自然に慕われる子だと思う。

面接で『両親に敷かれたレールの上から脱線したいんです』と強く訴え、うちの会社に飛び込んできたときから、いい意味でのギャップを感じていたため、母親に嘘をついたことを聞いても驚かなかった。むしろ〝やるな〟と感心したくらいだ。

ただ、自分がその嘘の片棒を担ぐだなんて厄介な提案は、安易に受け入れられない。俺にとっても彼女にとっても、沽券に関わる問題なのだから。

しかし、最初は断るつもりだったものが、あの異端社長のひとことで気が変わった。

確かに恋人の存在をうまく使えば、今抱えているひとつの問題を解決することができるかもしれない、と。