「いい加減もう良くな~い?リンゴでの練習」
 胡桃に声をかけられて、ハッと我に返る。

「どんだけ剥くの~?」

「あ!ホントだ…!もう、やめとこっか」
 慌てて声をかけると、司君は返事をした。

「はい」

 …メチャクチャ、ボーっとしていた。

 

 彼の、初めての食事当番日。
 たまたまアルバイトが休みだった私は、図書局を早めに切り上げて帰って来た司君と並んで、台所でひたすらリンゴを剥いていた。

 私は小学3年生の時、包丁さばきが飛躍的に上達した。半分遊びながらリンゴの皮剥きを毎日、練習したからである。

 自分の経験上、包丁の練習にはリンゴの皮剥きが最適だと思い、初めて包丁を持つ司君には皮剥きの練習をしてもらっている。

 でも確かに、目の前には12個もある、剥きリンゴ。…圧力鍋で蒸しリンゴでも、作ろうかな。

「司君、剥くの上手だね~!ホントに今まで料理した事無かったの~?」
 胡桃が声をかけると、司君は手を動かしながら頷いた。

「はい。初めてです!でももう6個くらい剥いたから、コツは大体覚えたかな」

「おお~!やるね君!頼もしい~!」

 そうなのだ。

 彼はとても、手先が器用な人だったのである。見よう見まねで、あっという間に皮剥きのコツをマスターしてしまった。

「この調子だと、ジャガイモの皮剥きとかも心配無さそうだね~」

 胡桃はそう言いながら手を振り、部屋へと戻って行ってしまった。

 再び二人きりになり、最後のリンゴを剥き終わると、彼はにこにこしながら私に聞いてきた。

「沙織さん、次は何をしましょうか?」

「そうだね、それじゃあ、キャベツの千切りをお願いしようかな」

 最初はあまり細く切れないと思うけど、キャベツもいい練習材料だ。今日の夕飯は肉野菜炒めで、キャベツは最後に肉と一緒に炒めるだけだから、本当はどんな大きさになったって構わない。

「わかりました」

 私が先にキャベツの千切りをして見せると、彼はそれを真似して手早くキャベツを切り揃えていく。初めてにしてはやっぱり上手いし、心配な要素があまり無い。

 彼の手を、思わずじっと見てしまう。

 細くて長い指。
 滑らかな白い肌…。

 私よりも、ずっと綺麗な手…。

「沙織さん、人参も切りましょうか」

「…」

「…沙織さん?」

「…あ、ご、ゴメンね!ボーっとしてた…」


 台所に横に並びながら、目と目が合う。


 息がかかるくらいの至近距離。


 彼はちらっと、あの瞳を見せた。

 あの時一瞬ぞくっと感じた、私にだけ向けた妖艶な視線。

 …何だか急に、恥ずかしくなり、
 この場から今すぐ、逃げ出したくなる。








『もし僕が「キスして」ってお願いしたら、してくれますか?』












『僕、あなたとキスしたい』










 正直なところ。

 どうやってあの後、彼の願いをスルーして、家に帰ったのか。衝撃を受け過ぎた私は脳内がおかしくなり、あまりよく覚えていない。



 とりあえず、キスについては
 一旦お預けになった、と思われる。


 …が。


 多分彼は、私からのキスを何故か、
 ずっと、待っている…様な、気がする。




 …何故……?




 …どうして私から…?




 …ううん!そういう事じゃ無くて…。

 …ええっと、そういう事も含めて…。



 今の私にはあまりにも、何というか高度な何かを、求められている、というか…。





「…ぷっ!」


 彼は突然、笑い出した。

「…!」

「ははは!沙織さん。もしかして何か、やらしい事を考えているでしょう?」




 …やらしい事?!





 .........違う!!





「…?!私は別に…」





 …そもそも誰のせいでこんな…!







 彼は私の耳元に、唇を寄せて囁いた。


「駄目ですよ沙織さん…今はまだ…。そんな事したら燈子さんの逆鱗に触れて、僕達ここを、追い出されちゃうから」


 …わっ!!くすぐったい!!




 ……そんな事って、どんな事よ?!







「もう!!」






 私は両手に力を込め、密着した体を無理やり彼から引き剥がした。







 彼は、くすくすと笑いながら私の表情を観察し、またキッチンへと目を向けた。





「沙織さん、人参はピーラーで剥いていいの?」






「……ピーラーでいいです」





 ……。






 彼は何事も無かったように微笑みながら、人参の皮剥きを始めている。





 小悪魔彼氏に、振り回される毎日。
 1週間前には、想像も出来なかった。



 もう12月に入ってしまっている。



「明日、何時に家を出ましょうか」

「そうだね。舞台は17時からだけど…」

 私は急に、ある事を思い出した。
「司君は、明日何か予定ある?」

「舞台以外は、特にありません」


「じゃあ、明日は学校お休みだし、紅葉を見てから行かない?」











 翌日。

「今年は、紅葉シーズンがいつもより遅かったんだって!今が一番見頃だってニュースでやってたの」

「……そう…」

 彼はその話題に生返事をしながら、部屋を出た場所で、私の服装をじっと見つめていた。

 今日は、服装選びに時間をかけた。

 白いモコモコ素材のジャケットに、薄いグリーンのウールタートルネック。少し甘めな花柄のロングスカート。小さなグリーンパールのイヤリングと、ハートモチーフネックレス。

 彼は顔を赤くしながら、

「…なんでそんなに、可愛いの…」
と言ってくれた。

「…あ、ありがとう…。司君も、かっこいい、よ」

 グレーのロングコートに黒セーター、白いシャツに黒格子柄パンツ姿の司君。どんな色でも彼には似合うけれど、本当は黒が一番似合うのかもしれない、と惚れ惚れしてしまった。

 彼はますます照れたように目を逸らし、
「…ありがと」
と言いながら、私の手を取った。

「じゃ、行きましょうか!」