朝風呂から出てきたちなちゃんが、髪の毛を拭きながらリビングに入ってきた。

「望が出てるの?」

コンタクトを入れていないらしく、テレビ画面に近づいて数秒凝視する。

「なんだ。全然違う人じゃない」

日曜日の午前中には、テレビ棋戦の放送がある。
実家にいたときは、お兄ちゃんやお父さんがしょっちゅう観ていたけれど、ちなちゃんとのふたり暮らしになってから、一度もつけたことがない。

「お兄ちゃんなら予選で敗退したらしいよ」

「じゃあ、なんで観てるの?」

私が一瞬言葉に詰まった瞬間、画面は解説用の大盤に変わった。

「あ、川奈くん。へえー、ちゃんと棋士なんだねえ」

先週棋戦のホームページで名前を見つけ、わかっていてチャンネルを合わせたので、どこか気まずい気持ちで膝を抱えた。
ちなちゃんは、コーヒーメーカーからコーヒーを注ぐ片手間に、スマホでニュースをチェックしている。

『▲同銀と取るのが手筋なんですが、この場合角が利いてますので取れません』

『本譜は▲6五歩と突きました』

聞き手の篠井女流二段との息の合ったやり取りで、淀みなく解説は進んでいく。
先生に監視されている生徒のように、真面目な表情だった。

「あ、このカットソーかわいい」

将棋に興味のないちなちゃんは、全然違うところを見ていたらしい。
篠井女流はシンプルながら、ミントグリーンの爽やかなカットソーを着ていた。

「うん。似合ってるよね」

女流棋士は知的且つ親しみやすく、好感度の高い人が多い。
篠井女流も例に漏れず、出しゃばらず引っ込み過ぎず、適度な距離感で川奈さんの解説をサポートしていた。

「女流棋士って美人多いよね。……あ、このコーヒー、ちょっと煮詰まってる」

「ちなちゃん起きてくるの遅いんだもん」

『えっ!』

姉妹の会話に、川奈さんの声が割り込んで、私たちは同時に画面を見た。

『△3六歩ですか……。えー、全然手が当たらない』

『ふふふ。△3六歩、でしたね』

将棋の解説とは、実際に指された手の意味や狙いを説明し、今後の展開を予想して解説して行くのだけど、川奈さんはさっきから何度も予想手をはずしていた。

『次はさすがに▲同歩です。これは間違いないです』

『大丈夫ですか?』

『大丈夫です。これはずしたら棋士辞めます』

『えっ!』

誰の得にもならない前のめり過ぎる発言に、私も篠井女流と心をひとつに驚いた。

『すみません。やっぱダメ。辞めないです。辞めないけど……でも▲同歩です』

立場に恋々とする情けない姿を全国に披露したところで、ワイプ画面では伸びた手が歩を取った。

『よかった~。▲同歩でした』

篠井女流がほっとした笑顔で、大盤の駒を動かす。

『ムダにハラハラしました。これ▲3一角打なんて指されてたら、篠井さんに養ってもらわなきゃいけなかった~』

『うふふふふふ。生活苦しくなります』