始発の特急で紗奈恵を見送ったので、始業時間には十分に間に合った。頼まれたからでもあったが、無事に紗奈恵を逃がしてやれてよかった。でもこの先どうするんだろう。それが気になった。

定時には研究所を出て、帰りにいつものように駅前の回転寿司で夕食を食べてから、マンションに帰ってきた。

一晩であったが紗奈恵がそばにいた。ただ、彼女の痕跡は何も残っていなかった。ソファーの毛布には紗奈恵の残り香があったが、すぐに消えてしまうはかないものだ。紗奈恵は僕に憂鬱な気持ちだけを残していった。

いつものようにお風呂に入って、ソファーに寝転んで、水割りを飲みながらテレビを見ていると、玄関チャイムが鳴った。紗奈恵が訪ねて来た時と同じだ。悪い予感がした。

玄関の覗き窓から外を見ると男性が立っている。ひよっとして彼女の夫が訪ねてきた? もうここを探してきた? どうしてここが分かったのだろう?

「どちら様ですか?」

「市瀬雅治さんのお宅ですか?」

「そうですが、何か?」

田村(たむら)敏一(としかず)といいます。市瀬さんには以前、池内の家でお目にかかったことがあると思いますが?」

予感は当たっていた。彼女が言っていたがまさかと思っていた。彼の性格にぞっとした。僕のことも覚えていた。僕は会ったことは覚えていていたが、名前までは憶えていなかった。

「池内さんお家で? ひょっとするとお正月ですか?」

「そうです。紗奈恵の夫の田村敏一です。ちょっとお話がありますが、いいですか?」

「いいですよ」

僕はドアを開けた。落ち着いた様子で田村さんが立っていた。その顔に見覚えはなかった。僕は人の顔を覚えるのが苦手だ。

「妻の紗奈恵がここへ来ていませんか?」

「いえ、池内さんとは一昨日の晩にもう一人の友人と3人でミニ同窓会をして飲みましたが、それから会っていませんが」

「本当ですか? ここにいるのではないですか?」

「疑われるのならどうぞ中にお入り下さい」

田村さんはそれならと入ってきた。人当たりは柔らかいが執念深そうな人だと思った。リビングのソファーに座ってもらった。昨日は紗奈恵がそこに座っていた。

コーヒーを用意する。こういう時はコーヒーでも飲んで落ち着くのが一番だ。コーヒーを入れている間、彼は寝室や浴室、トイレを探していた。断りもなく失礼な人だ。性格が出ている。コーヒーが入ったので勧める。

「どうしたんですか。池内さんがいなくなったのですか? 夫婦喧嘩ですか? 会った時はそんな素振りは全くなかったですが」

「あなたはどうして妻を誘ったのですか?」

「僕は昨年の10月にここへ転勤で引っ越して来ました。偶然、駅前で出会って、それで懐かしかったので、もう一人の友人と同窓会をしただけです。何か誤解されていませんか?」

「あなたは昔、妻と付き合っていた。それでよりを戻そうとした。そうじゃないですか?」

「だから、誤解です。彼女とは元々付き合っていたというような関係ではありませんでした」

「それなら、なぜ、新年に彼女に家を訪ねたのですか?」

「それまでは毎年、新年に彼女の家に同窓生が集まって新年会をしていたからです」

「ほかの人は来なかった。来たのはあなただけでした」

「僕はほかの同窓生も来ていると思って訪ねたのです」

「それというのも彼女に気があった。そうでしょう」

「あえて否定はしませんが、あなたと結婚すると聞いて、諦めたと言っていいのかもしれません」

「いずれにしても、もう妻とは係わらないでいただきたい」

「分かりました。ひとつだけ教えてください。どうして僕がここに住んでいることが分かったのですか?」

「妻の同窓会名簿を調べたら、スマホの受信歴にあった市瀬の名前を見つけたので、会ったことを思い出しました。勤務先が分かったので、この辺りに住んでいるのだろうと問い合わせたら同じマンションに住んでいることが分かりました。郵便受けから部屋が分かりました」

そう言って、僕をにらむと、せっかく入れたコーヒーも飲まずに彼は帰って行った。ほっとした。彼の執念深さにはぞっとした。彼女がここに居なくて本当によかった。

核心をつく質問もあった。正直に話したつもりだった。彼女に対する異常な執着を感じない訳にはいかなかった。彼女がここに長居をせずにすぐに実家に帰った訳がよく分かった。