数か月前、まだ美鈴が東京の大手町にある外資系企業で働いていたときのことだ。

 定時を過ぎて人もまばらになったオフィスに、張りのある男性の声が響き渡った。

「ほんっっっとーに、ごめんっ!有坂さん」

 美鈴のデスクを囲むパーテーションに半ば頭をこすりつけるように、スーツ姿の同僚が深く頭を下げいる。

 その男性 ―― 美鈴と同期入社の柴田幸太は、175cm以上はありそうな長身をキッチリと折り曲げて精一杯の謝罪の意を表そうとしているらしかった。

 一方の美鈴 ―― 柴田から謝罪を受けている彼女は、チラリと柴田を一瞥(いちべつ)しただけで、ひと言も発することなく視線をパソコンのモニターに戻した。

 その間も彼女の白い指は一瞬も止まることなく、恐ろしいスピードでキーボードを叩き続けている。

 ビジネス上必要最小限のメイク、ロングの黒髪をうなじの後ろで一つにまとめて、襟のピンと立った白いシャツ、濃いグレーのスーツに身を包んだ彼女は、まさに「絵にかいたようなキャリアウーマン」といういで立ちだった。

 PCメガネ越しに見える彼女の瞳は冷ややかで、多分に芝居がかった柴田の大げさな謝罪に心を動かされた様子はみじんもないようだ。

 柴田は柴田で、パーテーションに張り付いたまま動こうとしなかった。美鈴の、何らかのリアクションを待っているのは明らかだ。
 その姿には、飼い主の命令を待ち続ける忠犬を思い起こさせるような必死さがあった。

 カタカタカタカタ……
 美鈴の立てるキーボードの音だけが、静かなオフィスに響いている。

 きまずい空気が、時間にして5分ほど流れた後、軽くため息を吐いて、美鈴はキーボードの上の手を止めた。

「……レポートの期限やぶりは、これを最後にして頂きたいです。……後工程がつまっているので」

 月次のセールスレポート提出期限破りの常習犯、柴田は恐る恐るパーテーションのへりに押さえつけていた頭を上げて美鈴の顔色をうかがった。

 しかし、美鈴は柴田の顔を見るでもなく、さきほどからの無表情を崩すことなくパソコンのモニターをじっと見つめている。