尚は、朝、パリの街の一角にある落ち着いた雰囲気のカフェで、エスプレッソを飲んでいた。

これは、尚がフランスに来た時からの習慣で、休日も平日も関係なく、数年間毎日続けている。

街行く人々を見ながら、一口それを飲むと、ふうっと息を吐いた。

しかし今日は、「いつも」とは少し違った。

「あの……」

いかにも重そうな分厚い音楽書を読んでいると、日本語でそう話しかけられる。

「高倉尚さんですよね?」

その人は、フルネームで尚のことを呼ぶ。

尚はその人の方に顔を向けると、その容姿を確認した。

「ええ、はい。あ、あなたは……」

そこにいたのは、今度日本で行われるコンサートに出演する若手演奏家の1人である、ヴァイオリニストの白金南だった。

「白金南です。今度のコンサートではよろしくお願いします」

南は、頭を下げた。

「いえいえ、こちらこそ」

「隣、いいですか?」

「はい、もちろん」

南も同じくエスプレッソを注文すると、2人はそれを飲みながら会話に花を咲かせる。

初めて会ったのにも関わらず、2人の間には壁というものがあまり見られず、それはやはり2人に音楽という共通点があるからだろう。

南も同じくパリに住んでいることを、尚は初めて知る。

「少し前まではドイツの方にいたんですけど。……というか、私、大学時代から尚さんのこと知っていたんです」

「え? もしかして同じ大学?」

「はい。尚さん、結構ヴァイオリン科でも有名でしたよ。モテていましたし。……でも、いつも女の方といらっしゃいましたよね?」

「ああ、彼女は、僕の好きな人です」

尚は、何も躊躇することなく、桜のことをその単語を使って表した。

それを聞いた瞬間、たちまち南の表情は曇る。

「付き合ってはないんですか?」

「彼女にも、日本での夢がある。だから、僕はそんな彼女をフランスに連れてこれなかったんです」

「そうなんですか……。尚さん、私なら同じプロ奏者として側にずっといられると思います」

と、南は両手をぎゅっと握り尚の目を見て突然の告白をした。