2114年 10月某日
 わたしは今、ある施設に身をよせている。どうしていつも逃げてばかりだったのか、しきりにあのときのことが思い出される。
 だが自分の気持ちを知ってしまった以上、城にはいられなかった。身分の違う自分が彼と結ばれるはずもない。
 それでも、今も期待してしまう。あのドアを開けて、彼が迎えに来てくれることを。
 おや、ノックの音が……


 澄みわたる天気だったアケイシアとは一転、スクラップは灰混じりの雨模様だった。
「ふう、ただいまー」
 呑気なかけ声で工場の入り口をくぐった瞬間、ツバキは強烈なパンチに見舞われた。頭に上げたゴーグルも、ベルトがはずれふっ飛ぶ。
「……てめっ、何すんだ、いきなり!」
 切れた口の端をぬぐい体勢を立て直すと、アカザが仁王立ちになって、パキポキと指を組み鳴らしながらツバキを見下ろしている。
「そこへ直れ……」
「とんだ出迎えじゃねェか。何のつもりだ!」
 息巻くツバキに、ヒノキが黙って一枚の手紙をわたした。
「お前宛ての書き置きだ。アニスは今朝早く、我々も気づかんうちに出て行ってな」
「な!?」
「新しい石けんを置いて行ったよ」
 ヒノキが小さなガラス瓶を棚から取り出す。
 薄い木のスプーンが添えられたまっ白なそれは、今までの固形石けんとは違う洗料だった。手に取るとアイスクリームのようになめらかで、思わずなめてみたくなる。
「あんたと取材に行った緋ノ島の白砂で作ったと、我々への手紙には書いておった」
 そう、緋ノ島のオレンジ農家の老人は、きめの細かい白砂を洗料に使っていたのだ。それをヒントに、アニスは商品を開発した。
「これで工場は安泰だ。おまけにあの子は、灰干しや灰を使った染色法まで残していきおった。やっかいな火山灰が役に立つ日が来るなど誰が考えた? わしも夢にも思わなかったわい」
 ヒノキが鼻をすすり、うれしさに涙ぐむ作業員の姿もある。巨漢のカシすら無表情のまま、だらだらと涙を流していた。
 ツバキも、思わず感嘆の声をもらす。
「新商品、できたのか……よかったな、アニス博士」
(わたしが作りたいのは、製作側も消費者も幸せになる石けん——)
 アニスが目を輝かせて語ったあのプレゼンは、今現実のものになろうとしている。
 ツバキは我に返り、アカザに向かって敢然と反駁した。
「おい、おれたちは工場に貢献したじゃねェか。何で殴られなきゃいけねェんだよ!」
「その手紙を読んでみろ、この脳筋が」
 にぎってぐしゃぐしゃになった紙面に気づき、あわててそっと開く。
 そこには、数行ほどの文面が、きれいな文字でしたためられていた。
 ツバキはざっと目を通すと、手紙をつかみ急いで工場から飛び出した。文字が、アニスの声で甦る。

 ——リクドウさんへ
 短い間でしたが、お世話になりました。
 わたしは桜城へ行き、DNA鑑定を受けてみようと思います。
 国王のいない国で、神の加護のない国で、わたしができることなんて本当にちっぽけ。もしもわたしが王女だったとしても、何も変わらないかもしれません。リクドウさんに、賞与をわたせるかもわかりません。
 それでも、塾考欠乏体質のリクドウさんを見ていたら、わたしも無謀なことに挑戦してみたくなりました(笑)
 リクドウさんの夢が叶うことを願って——アニス

 行く手を遮るように灰雨が叩きつける。通常の豪雨より灰が混じっているぶん重く濁っており、それは泥が降るような状態だ。
 ゴーグルなしでは数歩も進むことができず、瞬く間に泥だらけになりツバキはつまずいて転んだ。転倒したまま、ぐしゃりと手紙をにぎりしめる。
「何だよ(笑)って。笑えねーよ。塾考が欠乏してて悪かったな。さりげなくけなしてんじゃねーよ。おれだっていちおう考えたんだよ。でも、何で自分はいつも勝手に行っちまうんだ。そんなのずりィじゃねーか」
 雨といっしょに灰の粒が目に入り、痛さに泣けてきた。いつかのトウガラシスプレーより激しい痛みに、後から後から涙が出た。
 うずくまるツバキの前で、黒のアーミーブーツが砂利を踏む。
「悪いが手紙は読ませてもらった。おれが殴ったのは、お前の姿勢が気に入らねえからだ。ツバキ・リクドウ二等兵、お前は自分の昇格の手段にアニスを使おうとした。本当にどうしようもない男だな」
 アカザが、ツバキの胸ぐらをつかんで起き上がらせる。されるがままになりながら、ツバキはぼんやりと思った。
(……こいつ、初めからおれの名前知ってた。指名手配されてたから? でも、じゃあ何で工場に招き入れた。いったい、いつから素性を知ってた?)
 だが、今はそんなことはどうでもいい。
 蔑する目つきで、アカザが力の抜けたツバキに顔を近づける。
「ふん、もう少し骨があるかと思ったが、所詮この程度の——」
 ——カチ。
「動くな」
 脇腹に当てられた銃口の感覚に、アカザがぴくりと片眉を上げた。抑揚のない声でツバキが告げる。
「サンドバイクのキィをよこせ」
「……これ以上罪を重ねると、近衛連隊から除名されるぞ」
「わたさねェと撃つ」
 銃口をおし当てたままアカザを睨むツバキのまなざしは、磨いた水晶のように硬質で精悍な光を宿していた。
 脅されているというのに、アカザはニヤリと口角を上げる。
 キィを受け取るとツバキはバイクにまたがり、札束の半分をアカザに投げた。
「——チビのことは悪かったな、オッサン」
 バイクは爆音を立て工場の敷地を出て行き、作業員たちがわらわらと出て来る。
「オッサン……」
 こめかみを引きつらせるアカザの隣りに、ヒノキもやって来た。
「リクドウのやつ、行ったんですか」
「ああ、ようやくな。馬鹿め、おれが水鉄砲と銃の区別もつかねえと思ってやがる」
 アカザは忌々しげに、だが楽しげに、遠ざかるバイクを見やった。

 叛乱の起きた城へ単身で向かい、「わたしが王女かもしれません」と自己申告するなど、正気の沙汰ではない。
(朝一番に出たとしたらもうコミューンへ到着する時間だ。間にあってくれ)
 ツバキはアクセルを全開にし、フルフェイスのヘルメットの中で少女の無事を祈った。
 ところが当のアニスはというと、未だスクラップを出ていなかった。
 アニスに交通費の持ちあわせがあるはずもなく、スクラップへ来たときと同様、灰を積んだトラックの荷台にこっそり忍び込んで来たのだ。
「あれ。ここ、どこ……?」
 荷台から降り立ったアニスは、灰混じりの風にくしゃみをした。ゴーグルは持って来たが、マスクの準備を忘れていた。
 きょろきょろとを巡らせば、見わたす限りの灰の山。砂漠と違うのは、砂丘が海に面していることくらいだ。
 アニスが乗って来たトラックは、灰の埋立地行きだったのだ。ぽつぽつと遠くにガソリンスタンドや社屋は見えるものの、現在地はさっぱりわからない。
(考えてみれば、降灰収集のトラックが『丘』へ行くわけがないんだ)
 どんなに学力が高くても、肝心な部分の思考が抜けている自分の浅はかさに情けなくなる。
 それを笑う声も説教をする者も、今はいない。十六年の間で、まったくのひとりになったのは初めてだった。
 ずっと護られて生きてきた。寄宿舎ではシスターたちに、学院を出てからはツバキに。
 護られるのは悪いことではない。ただ、隣りに誰もいない心細さにドキドキするだけだ。博士号など、ここでは何の役にも立たない。
 背のびをしてもう一度見わたせば、遠くに線路が見える。
(迷子になったら、その街の駅を目指すこと)
 それは、ツバキとの約束事。
(あれを伝って行こう)
 不安を払拭するように頭をふると、ざくざくとした灰の小山をアニスは歩き出した。

「あっ、また……」
 立ち止まっては、スニーカーを脱ぎひっくり返す。すぐに灰が入ってくるのだ。ブーツや軍靴でないので進むたび靴が埋まり、とかく砂地は歩きにくい。
 朝から飲まず食わずでかれこれ二時間以上は歩いているので、そろそろ息も荒くなってくる。
「人間の平均時速はおよそ五キロだから、十キロは歩いたかも……」
 計算で気を紛らわせようとするが、きついものはきつい。
 ようやく線路の道床に入るも、方向がまったく定まらなかった。磁石を持って来るべきだったと思いつつ、風向きで決める。風上が『丘』方面だろう。
 海沿いの線路はレールも錆び、枕木もほぼ朽ち果てていた。いったいどこへ向かう路線なのか。
 標べのないルートを行くのは、数式であっても実際の歩みであっても、アニスにとって意味を成さない行為であった。
(でも、わたしが王女だって証明されれば、リクドウさんの役に立つかもしれないんだ)
 その思いだけが、アニスを先に進ませる。
 ツバキにほめてほしい、喜んでほしい、笑ってほしい。
 アニスは、彼が心から楽しそうに笑った顔を見たことがない。いつもつまらなそうに、それか照れたように、下を向いて控えめに笑う。
 それは粗野で言動も荒いツバキのイメージとはかけ離れていて、思い出すとアニスは少し切なくなる。
 そんな彼の笑顔を拠りどころに歩いていたが、唐突に線路は終わりを迎えた。小さな駅舎の先に、列車が走る道はなかった。
 ただでさえ経営の苦しいスクラップでは、第三セクター鉄道の事業を廃止せざるを得なかったのだろう。線路は地底に続くかのように、その先が灰に埋もれている。
 これでは、どこにも辿り着けない。
「そんな……」
 自分の望みも断たれた気がして、アニスはやりきれなかった。途方に暮れて、海岸線から海を見下ろす。
 海面へと続く長い階段を、ひとりの男が降りて行くのが見えた。だが今は満ち潮、眼下の砂浜には下りられないはずだ。
 不思議に思い、自分も階段を伝って行くと、なんと壁に横穴が空いている。
「こんなところに通路があったなんて……」
 横穴からはちょろちょろと水が滴っており、初めは地下水路かと思ったが、どうも下水道のようだ。
 ここを辿って行けばグレーターへ着くのではという期待は萎えたものの、何があるのかどうしても奥が気になる。
「どのみち、他にひとはいないんだもの。あのひとに『丘』への行き方を聞けばいいわ」
 アニスは男の後をこっそりついて行った。横穴のトンネルは天井が低く、アニスの身長でぎりぎり通れる高さである。男はかがんだ姿勢で、そろそろと注意深く歩いてゆく。
(どこまで行くんだろう)
 いくつか角を曲がり、もとの場所にひとりでもどれるだろうかと、アニスは心配になった。
 ふと顔を上げると、追いかけていた男が見当たらない。こうなった場合を想定しておらず、アニスはどっと不安に襲われた。
 トンネルの中は、あちこちに電気の配線が通りまったくの闇ではないが、下方は見えない。足もとをすり抜けるドブネズミに驚いて、アニスはしりもちをついた。
「痛った……」
 突然、ライトで顔を照らされ、まぶしさに思わず目をつぶった。
 気がつくと、気の荒そうな数人の男たちがアニスを囲み、怪訝に見下ろしている。目が慣れてくると、老若男女いろんな層の人間が十数人、遠巻きにアニスを見ているのがわかった。
 みな、汚れた顔に古びた服を纏い、武装している者もいる。希望通り奥に入れたとはいえ、どう見ても無事に帰れそうにはない。刺客や偽ウサギたちのような殺意や悪意は感じないものの、わかりやすい敵意は感じる。
 話が通じる連中とも思えず、アニスはカタカタとふるえ出した。
「……お前、どっから来た。西のもんか?」
 浅黒い顔のリーダーらしき男が、配管を肩に掲げながらアニスを睨んだ。二十代ほどの大男で、素肌にモッズコートを羽織り、桜柄のネッカチーフを首に巻いている。
「に、西? い、いえ違います。わたし、中がどうなっているのか気になって……」
「下水が気になってわざわざ入った? 何を企んでいる、貴様。そんなやついるか!」
 脅すように配管をこちらに向けられ、アニスがひっと肩を上げたとたん、集団の中から涼やかな声がした。
「いたよ、『そんなやつ』」
 ひとりの少年が、バスタオルをショールのようにかけ、歩み出る。
 色白で華奢で、アオイと同じくらいの男の子だ。威嚇気味のリーダーの声質がくるりと変わった。
「その通りだな、クコ」
 クコと呼ばれた少年はぺたぺたと裸足でアニスに近づくと、自分もちょこんとすわり、アニスの顔をじっと見て笑った。
「——やっぱり、あのときのお姉さん。助けてくれてありがとう」
 
 通路の奥は広がりがあり、ソファやテーブルが置かれたそこは、用途で言えばラウンジだった。テレビや冷蔵庫、今ではお目にかかることのない旧型のラジカセもある。
 彼らは、地下にはり巡らされた下水道、通称マンホールタウンで暮らす、まつろわぬ民と呼ばれるコミュニティだった。
 それは孤児だったり、組織や社会に適合できずドロップアウトした者だったりと、さまざまである。
 アオイも、工場のみんなが面倒を見てくれなかったら、ここに行き着いていたのかもしれない。
「要は、不要とされた者の集まりってことだ」
「違法ってのもわかってるッス。でも働き口も住むところもなくて、しょうがないんスよ」
 前歯の抜けた男が投げやりな口調で、ブリキのコップをアニスにさし出す。
 ただのお湯で溶いただけのインスタントコーヒーだが、アニスはようやくほっとして口をつけた。
 あの砂嵐の日、防具を盗られ行き倒れ寸前だった少年は、自分を助けてくれたアニスの顔を、おぼろげながら憶えていたのだ。
 仲間の恩人をみな歓迎して受け入れてくれ、リーダーも清廉と頭を下げた。
「クコは大切な弟だ。助けてくれて礼を言う」
 親子ほどの年齢差があるうえ、遺伝子の欠片も共有していないような二者に、アニスは笑顔が固まるが、リーダーは申し訳なさそうに続ける。
「さっきはすまん、西のやつと間違えたのだ」
「西?」
「スクラップの地下住民は東と西に分かれててな、抗争が耐えない」
 聞けば、昔は住処が違うだけで、食料も分けあったりしていたという。ここまで関係が悪化したのは、最近のことらしい。
「互いのテリトリーに足を踏み入れれば、どちらもただじゃすまさねえッス」
 歯抜け男が悪い笑みを作るが、アニスはノラ猫の縄ばり争いみたいだな、と胸中思った。
「でも、どうして仲が悪くなったんですか?」
「初めに仕掛けてきたのは、西のやつらッス。ウチのバッテリー壊しやがった。それから度々、食材をめちゃくちゃにしたりとケンカ売ってきやス。こないだなんか飲み水全部、下水に流しやがったんスよ」
「どれもおれらにとっては、なくなりゃ死活問題だ。絶対に許せない」
 怒りの代弁のように、リーダーが配管を床に打ちつける。だがアニスは、不思議な顔で周りに尋ねた。
「あの、西のひとが壊すのを、誰か見たんですか?」
 みな顔を見あわせるが、挙手もなく、どこからも声があがらない。アニスはラウンジを見回す。
「わたし、海沿いの入り口から入る人物を見て追って来たんですけど、そのひと、ここには見当たらないんです」
「そいつがきっと西のもんだ」
 リーダーが忌々しげに顔をしかめる。アニスはさらに質問を投げかけた。
「西のグループっていうのは、物資には恵まれているんですか?」
「そんなわけはない。同じ環境、こっちと似たようなものだ。何が言いたい?」
 アニスの問いの意図がわからず、リーダーはイライラとひざをゆすった。
「いえ、ここ東のグループにとっても大切な物資なら、西にとってもそれ、必要なものですよね。どうしてわざわざ壊して行ったのかなって。食材や飲料水だって、使いものにならなくするくらいなら持って行けばいいのに」
「そりゃ、あいつらのいやがらせで……」
「死活問題ですよ。そんないやがらせする余裕あるでしょうか」
「どういうことだ?」
「つまりですね。それ本当に、西のグループの仕業なのかなって」
 アニスの出した結論に、コミュニティ全員が考え込んだ。沈黙する集団の中、リーダーが配管をかかえ、やおら立ち上がる。
「よし、わかった。西エリアへ行こう」
 アニスは、話しあいを促したつもりだった——のだが、
「ちょ、ちょっと待って下さい! 西のグループがやったとはまだ……」
「だからその男のことを訊きに行くんだ」
 リーダーを初め、男たちは続々と武器を装備している。
「訊きに行く格好じゃないじゃないですか!」
 アニスの話を訊き、考えるのがまどろっこしくなったのだろう。完全武装で身を固め、抗争する気満々だ。
 しかし、こちらには子どもや老人もいる。最前線の男性陣に何かあったら、クコだって今度こそ無事ではいられない。
 そもそも、『丘』を目ざしていたにもかかわらず、自分が興味本位で下水道に足を突っ込んだせいでこんな展開になった——ような気がする。
 少なからず責任を感じたアニスは、半ばやけくそ気味に声をあげた。
「わかりました、わたしが訊きに行きます!」
「あんたが? 無理に決まっている。こちらにもどるどころか、二度と地上に出られないぞ」
 リーダーがアニスを鼻で笑う。だがそんなふたりの間に、クコがするりとすべり込んだ。
「じゃあ、ぼくがいっしょに行く。西エリアに案内するよ」
「な……だめだだめだ、クコ! お前にそんなことはさせられん! また、こないだみたいに何かあったらどうするんだ!」
 顔色を変えて反対する兄を、クコはきらきらとした上目遣いで見上げた。
「兄さん、お願い。ぼくもみんなの役に立ちたいんだ」
「む……では『土雲』を連れて行け」
 
(……どうして、こうなったんだろう。いや、わたしが言ったんだけど)
 曇った鏡に映る灰色の自分の姿を見て、アニスは深くため息をついた。
 地下住民になりきるにはと、アニスは変装を強いられた。顔は薄墨で塗られ、髪や服もあえて灰でまぶされ、まるで薄汚れた捨て猫のようである。シスターたちが見たら、卒倒しそうな装いだ。
 リーダーはアニスに、小型の機器をわたした。電波の届かない地下ではGPSではなく、このビーコンが活躍する。
 さらにリーダーは、出発までクコにくどくどと言い聞かせていた。
「いいな、クコ。お前が行くのは、西エリアの入り口までだ。その先は、危険だからアニスに任せるんだぞ」
(えぇ……)
 弟がかわいいのはわかるが、こちらも少しは心配してほしい。あからさまな差別に意欲の萎えたアニスであったが、自分から言い出した手前、やめるわけにもいかない。
「じゃあ、しっかりぼくについて来てね」
 クコに促され、配線の通っていないまっ暗なトンネルを進み出した。
「灯りのない通路を行けるのは、地下住民だけなんだ」
 クコは何の躊躇もなく何度も角を曲がり、鉄梯子を上ったり下ったりと、道筋を完全に把握している足取りである。
 だがアニスから見れば、マンホールタウンは迷路だった。いったん迷子になったら、リーダーの言う通り二度と出られないだろう。クコがついて来てくれてよかったと、アニスは思った。
「でも、お兄さんには心配かけちゃうわね」
「最近ますます煩わしいんだ。かわいくお願いすれば、だいたい言うこと聞いてくれるけどね」
 なかなかしたたかである。
「でもほんとのこと言うとね、ほんとの兄弟じゃないんだ。びっくりした?」
 言いづらそうに告白するクコに、アニスは真顔で答えた。
「ううん、それほどは」
 クコは先代のリーダーの息子で、親は警察軍と抗争の際亡くなったという。そのため現リーダーが面倒を見ているそうだが、彼が過剰にクコにかまうことを除けば、アオイとアカザの関係性に似ているとアニスは思った。
 ハイト油脂にしても東のコミュニティにしても、そこで暮らす者たちには絆がある。
(うらやましいな。もしもわたしが王さまの娘だったとしても、もう家族はいないんだもの)
 しかし今は、そんな泣き言を言っているひまはない。
 先を行くクコがぴたりと止まったかと思うと、アニスをそっとふり返った。下方を見ると、少ホールほどの広がりに、固まる物々しい集団がある。西エリアだ。
 アニスは、忍び入るチャンスをじっと待った。外から来たふりをして、西のグループに入れてもらおうという作戦だ。
 高みから様子を窺い見る。だが彼らは話あいの最中のようで、なかなか散らなかった。
『……が、また壊された』
『飲み水も下水に……』
『東のやつらが……』
 既視感のある会話に、アニスは首を捻った。
「ねえ、これって、西も同じ——」
 そうクコにささやいた瞬間、アニスの持っていたビーコンが、少ホール目がけて落ちていった。
「しまっ……!」
 コーンコーン……
 集団の目が、いっせいに上方へ向けられる。
「ひ……東のやつらだあ!」

 あっという間にアニスとクコは捕まり、少ホールの中央にまとめて縛られた。東のグループに負けず劣らず物騒な連中が、険悪な目で睨んでいる。
「あ、あの、違うんです。わたしたち、外から来て……」
「嘘をつけエ! お前らが配線の通っていないルートから来たのが、何よりの証拠じゃ! 外の人間は灯りなしでは地下を歩けんからな!」
 西のリーダーは着流しに日本刀を携え、今にも抜刀しそうな勢いだ。縄目の痛さにクコはもぞもぞと首を傾け、うるんだまなざしでリーダーを見上げた。
「これ、解いてほしいな」
「何、馬鹿なこと言っとるんじゃ!?」
「……だめだアニス、このひとお願いが効かない」
「当たり前でしょ!」
 場違いな応酬に一触即発の西の集団の中、部下がリーダーに耳打ちする。
「頭目、今まで物資をめちゃくちゃにしたのはこいつらじゃ……」
「違うよ! ぼくたち犯人を見つけに、東から来たんだ!」
「さっきと言うとること違うやろ!」
 クコの発言にもう作戦が破綻したと感じたアニスは、すばやく西のグループを見わたした。やはり、海沿いの入り口で見た男は見当たらない。
(やっぱりこれは……)
 そうこう考えている間に、ふたりはずるずると奥へ引きずられてゆく。
「頭目、こいつらどうしましょう」
「死ぬまでここでこき使え」
「そ、そんな! わたし『丘』へ行かなきゃならないんです!」
 そのとき、ざわざわと壁を這う不穏なざわめきが聞こえたかと思うと、小ホールのほうから悲鳴があがった。
「ぎゃああぁ! 何だこいつら!」「助けてくれ!」
 なんと西の集団を、ドブネズミほどもある『蜘蛛』が襲っている。見たこともないグロテスクな物体に、アニスは驚愕して固まった。
「な、何あれ……!」
「土雲だ! ぼくたちの護衛について来た蜘蛛型のドローンだよ!」
 ガシャガシャと人体を襲う小型の機械に、西のグループはパニックに陥った。リーダーも半狂乱になって刀を抜刀する。
「止めさせろ! 止めないとお前らを斬るぞ!」
 だがふり上げられた日本刀は、鈍い音とともに配管で遮られた。
「き〜さ〜ま〜! 弟に刃を向けたな〜!」
 東のリーダーが、鬼のような形相で立っている。後からやって来た歯抜け男が、ふたりの縄を解いてくれた。
しかし場はすでに、両グループ入り乱れての大乱闘だ。
「ちょっと、みなさん止め……」
 誰も、アニスの言うことなど聞く耳を持たない。
「——クコ、灯りの配線を切って!」
「いいけど、どうして?」
「暗くなればわかるわ!」
 ぶつん、と地下は闇に覆われ、驚いた集団の戦いの手がはっと停まった。
そのほんの一瞬を突いて、アニスが叫ぶ。
「——物資を壊したのは東西どちらでもないわ! ここから逃げようとする者が犯人です!」
 アニスの指南に、東のリーダーはドローンの指揮を変えた。すぐに、土雲に追われ、暗闇であわてふためき縺れる足音がした。
 西のリーダーの言う通り、外の人間は灯りなしでは地下を歩けない。ぼちゃんと下水に落ちた人物を捕えたとき、ふたつのグループはすべてを理解した。
 この騒ぎを、ずっと嗤って見ていた別の者がいたことに。
 
 捕まった人物は、スクラップの住民だった。
 地下のマンホールタウンは、基本違法である。なかなか沈静化できないまつろわぬ民を一掃するため、両グループを戦わせ壊滅させる作戦だったという。
 これまで息巻いていた両リーダーは停戦するとともに、自分たちの将来を真剣に考え始めた。
「……まあ、いつまでもこのままってわけにもいかねえよ」
「クコたちのためにも、ちゃんとした仕事を探さないとな」
「そういえばあのおじさん、仕事があるって言ってたのにね」
 クコが思い出したように、兄を見上げる。
「それは、わたしと同じように、ここが気になって入って来たひと?」
「うん、一月くらい前かな。海に宝物を探しに来たっていう、変なおじさんがいたんだ」
「宝物?」
 とたんにわくわくと聞き入るアニスを、呆れたように男たちが笑う。
「何でも、ここの海底の泥には宝が眠ってるんだと。このポイントを拠点に調査をしたいから仕事に協力してほしいと頼まれたが、それきりだよ」
 なぜその男はすんなり地下へ入れてもらえたのか、アニスが不思議に考えていると、クコが巻いていたバスタオルを広げて見せた。
「そのひと、これ、くれたんだ。あれも」
 兄の首の、シルクのネッカチーフを指さす。古びたコーディネートの中で、確かに首回りだけ後づけ感があった。
 手下がニヤニヤ笑っているところを見ると、さしずめ「それをよこせば通してやる」とでも言ったのだろう。リーダーは知らん顔だが、クコ曰く、顔を隠すようにバスタオルを被った『変なおじさん』だったそうだ。
(何者だろう、どこかの大学教授かしら)
 だが、海底の泥に眠る『宝』に、アニスはおおよその予測がついていた。
 ここスクラップは、緋ノ島を眼前に臨む地区である。その湾には、気象庁が活火山に指定したカルデラの主要火口があり、約200度の熱水噴出孔(チムニー)が発見されている。
 つまり、海底火山が生まれた海で、火山ガスが溶け込む酸性水塊の泥は、ある鉱物をふくむ鉱床の可能性が高いのだ。 
 アニスはすぐにでも調べたくなったが、今優先すべきことは別にある。
 
 ふたりのリーダーは、両グループ総出でアニスを快く見送ってくれた。
「あんたには、クコともども世話になったな」
「今度来たら、手ぶらでも入れてやるぜ」
 クコはいっしょに地上へ出て、アニスを途中まで案内してくれた。
「ここから北上すれば『丘』が見えてくるよ。近道——は海沿いの線路だけど、今はもう埋立地だから、気をつけてね」
「ありがとう」
「また会えるといいな、アニス!」
 クコに手をふり、再び防具をつけると身が引きしまる。一度は刺客に狙われた身なので、できれば最短ルートで行きたい。
 アニスはもと来た道からまた歩き始めた。ほどなくして、切れたと思っていた線路が再び現れた。先を見わたせば、レールはところどころ灰に埋もれ、見えなくなっていただけだとわかった。
「よかった、線路はまだ残っていたんだわ。枕木やレールは再利用できるものね。これを辿っていけばいいわ」
 アニスは安心して足を足を踏み出した。しかしその一歩は——
 ずっ、と灰に足を捕られ、アニスは蟻地獄のような窪みにはまった。
(——流砂!)
 さらさらとゆっくり、灰はアニスを呑み込んでゆく。その緩慢なうねりが、なおさら恐怖を呼び起こした。
「誰か、助けて!」
 線路の先が消えていた訳を、なぜ予測しなかったのか。流砂で陥没したのだ。
(流砂に落ちたら、焦ってもがいてはだめ。まず砂に面する体積を広げ、上体を横に——)
 言い聞かせたが、知識の通り行動できるとは限らない。特に、精神の鍛錬ができていないアニスには無理だった。
「誰か、誰かあーっ!」
 必死になってレールの先をつかむ。だが灰の中から見えない力に引っぱられるようで、腕だけで支えるには躰が重すぎた。
 ずるずると漏斗のすぼまりに引き込まれ、ついに口にも灰が入ってくる。
(アンタはどっちの魚だい?)
 ふいに、コミューンの老爺の声が聞こえてくる。
 自由になった魚は外の世界で生きてゆけず、灰の海で溺れて死ぬのだろうか。
(助けて、リクドウさ……)
 耐えきれず、手がレールを離れた。遠くから、轟音とともに砂塵が近づいて来るのが、かすむ視界にぼんやりと見える。
(砂嵐……?)
 途切れそうな意識の中、突然砂塵の中からサンドバイクが現れ、強い腕が埋まりかけたアニスを引き上げた。
「——アニス博士!」
 アニスを抱いた人物は、そのまま平地へバウンドして転がる。咳き込みながらも、アニスは目をまるくして顔を上げた。
「リ、リクドウさん、どうし——」
(あっ、夢かもしれない。人間は臨終の際、エンドルフィンが発生して幻を見るという報告もあるし、これが俗に言う走馬灯——)
 大脳生理学が巡るアニスの頬についた灰を、夢のはずのツバキが手荒くぬぐう。
「あんたが金持ってねェの思い出して、近場の駅から線路伝いにシラミ潰しに当たった。迷子になったら駅を目指せって言ったの、覚えててくれて助かったよ。それにしても——すげェ格好だな」
 アニスの変装にふき出すツバキの笑い声に、ようやく夢ではないと理解し、アニスも高揚気味に話し出した。
「あ、あの、リクドウさんの真似をして、灰を積んだトラックに乗ったんです」
「マンホールタウンに入って、地下住民の方たちにも会ったんですよ」
「でも、線路を歩いてたら流砂にはまっちゃって」
 間断なくささやかな冒険譚を語っていると、ツバキが低い声でささやいた。
「大丈夫、もう平気だ。落ち着け」
 それでもまだ動悸が止まらない。ドキドキする胸をおさえると冷や汗がふき出した。貧血になりそうで大きく深呼吸する。
 突然強く抱きしめられ、アニスの息が一瞬止まった。
 堅い胸、ビートを刻む鼓動。ツバキのぬくもりがアニスの躰にも伝わり、確かな脈を打っている。
 ツバキは、辛そうに眉をよせていた。抱きしめられたまま、アニスは呆然とつぶやく。
「……こ、これは痴漢行為、じゃないですよね?」
「……どっちでもいい。いやならスプレーで撃退しろ」
 きまり悪そうにツバキが顔をしかめる。
(……そうね、どっちでもいい)
 アニスがもう一度顔をうずめると、広い胸からは懐かしい灰都の匂いがした。