2113年 12月某日
 彼女が城を去った。スカートめくりなど、子供じみたアプローチしかできなかった自分の本当の気持ちに、今頃気づいても遅い。
 誰でもないということは、彼女だったからだ。
 やけになって酔ったわたしを介抱してくれたスイレンが、朝目覚めたら隣に寝ていた。
 まさかわたしはスイレンとxxx(以下略)

 
 桜城では、王族を近衛連隊が取り囲み、今にも発砲せんとばかりにかまえていた。ハオウジュ将軍の大音声が、大広間に響きわたる。
「ただ今を以って桜城いや灰桜国は、近衛連隊最高司令官ハオウジュの指揮下に入る!」
 執務室から無理やり引きずって来られたウツギは、わなわなとこぶしをにぎった。
「——貴様! 初めから仕組んでいたのだな。あの王女もやはり偽物か!」
 かたわらでは、蒼白になったユウカゲが今にも倒れそうに身をふるわせている。
「ウツギ議員、貴殿が玉座を疎ましく思っていたようなので、わたしが名乗りを上げたまで。むしろ、感謝してほしいくらいだな。傀儡の王女を奉ろうとしたのは、そっちも同じだろう」
「お前が国を指揮するだと? 笑わせるな、元老院が黙っておらんぞ!」
「元老院など、やっかいな老害だと日頃からもらしていたではないか。望むなら消してさしあげるが、永遠に」
 その元老院は危険を察知して逃げたのか、王宮には誰ひとり見当たらなかった。思い当たったように、ウツギが顔色を変える。
「もしや、お前が前王を殺……!」
「勝手に食中毒を起こした王のことなど知らぬわ。此度とタイミングが重なっただけのこと」
 ハオウジュ将軍は、心外とばかりにふんと鼻を鳴らす。言及に答えるのも面倒になってきたのか、ウツギに銃口を向けた。
「わたしの配下に降るなら、これまで通り政と外交は任せよう」
「ならん! せめて二院制だ。王族でもないお前に統括権をわたせば、国や隣国にどのような波及が出るかわかったものではない」
「ウツギよ、わたしは貴殿と政治講義をするつもりもないし、これは要求ではない、命令だ。わたしに抗うと言うなら、血族諸共処刑台行きだぞ」
 将軍はちらと背後のユウカゲたちに目線を移す。ウツギに選択肢はなかったが、決断する勇気もなかった。

 アニスとツバキが桜城のクーデターを知ったのは、工場にもどってからのことだった。
「そんな……」
 作業員のミニタブレットに流れるニュースに、ツバキは軽くよろめいた。当然だが、自分は何も聞かされてはいない。
(ハッカはどうしてる?)
 将軍率いる近衛連隊側に命の危険はないとは思うが、問題はシュウカイドウたちだ。王族や王党派は、いつどうなってもおかしくはない。
(そして、王女捜索の件はもう——)
 クーデターが起きてしまった以上、王女の存在など誰もありがたがりはしないだろう。むしろ世に出て来ないほうが、本人にとっては安全である。
 完全に気落ちするツバキに、アニスはおずおずと声をかけた。
「あの、お城が心配ですよね」
「……ああ」
「でも、リクドウさんの上官が起こした叛乱なら、きっとお友だちは無事ですよ」
「そうだな。だが、何もかも水の泡だなって……」
 工場のすみにどさりとすわり込み、ツバキは言いにくそうに口を開いた。
「……王女を見つけた者にはよ、城から莫大な賞与が出るはずだったんだ。リクドウ家の領地を買いもどすには、金が必要だ」
 ツバキの言葉に、アニスは胸がきゅっとつまるのを感じた。
 あのとき船上で歯切れが悪かったのは、捜す理由をストレートに言いたくなかったのだろう。
(功績を上げて、いつかリクドウ家を興し直すのが——)
 強い目で語ってくれた、ツバキが思い出される。
 しかし、その夢は叶わない。
 それはアニスにとっても辛いことであったが、それ以上に、やはり自分の存在はツバキにとって、ただの任務でしかないという事実が悲しかった。
 黙り込むアニスに、ツバキがあわてて取り繕う。
「だっ大丈夫だ。城はあんなことになっちまったが、アニス博士の身柄は頃合いを見計らって、おれが責任持って学院に送り届けるからよ!」
 何も言葉が出てこず、アニスはその場を走り去る。
「あー怒らせた」「女の子怒らせたー」
 軽蔑の半眼でハモってくる作業員たちを蹴散らし、訳がわからずツバキはその場に立ち尽くした。

 ラジオのゲリラ放送や街中の巨大モニターでは、ハオウジュ将軍の声明文が流れっぱなしになっていたが、今のところ、処刑は告知されていなかった。
(とりあえず、王子たちは無事なんだな)
 彼らがふたりでツバキのことを捜すため城を出たことを知らない本人は、報道に胸をなで下ろす。
 だが自分も将軍から目をつけられているうえ、プリンセス殺しの指名手配も出ているので、簡単に桜城へはもどれない。
(まず先決は、アニス博士をどうするかだ)
 しかし加えて痴漢の嫌疑もかけられているので、マツリカ女学院へも行きづらい。ついでに金も底を尽き、アオイの治療費どころか、アニスを安全にコミューンへもどす手はずさえ整わなくなってしまった。
 こうなると、自分の今後のビジョンも当然見えない。ツバキはわかりやすく、頭をかかえ落ち込んだ。
 一方アニスは、これまで以上に商品の開発に打ち込んだ。
 緋ノ島で取材し、教えてもらったレシピを早く試したかったこともあるが、何かに没頭しているほうが、余計なことを考えずにすんだのだ。
 それでも、
(道が閉ざされ、リクドウさんは悩んでる)
 憔悴しきったツバキを見ると心が痛む。そしてそのツバキは、
「二、三日でもどる。ここで待っててくれ」
 とアニスに言い残し、工場を出て行った。
「——あいつ、もう帰って来ないかもな」
 ぼやく作業員の頭を、別の男があわてて叩く。ツバキを見送って立ち尽くすアニスが、隣りにいたからだ。
 誰に言われなくとも、アニス自身そう感じていた。
 今の自分は彼にとって、何の役にも立たないお荷物なのだから。
(……ねえ、アニスは好きなひと、いる?)
 アオイの声が頭で問う。
「うん、いるよ、アオイ」
 つぶやくアニスを、ふたりの作業員が訝しげに、そして少し離れたところからアカザが厳しい表情で見つめていた。

 スクラップからコミューンへ出たツバキは、列車でアケイシア地区へ向かっていた。
『アケイシア伯リクドウ卿』、父親の営むオーベルジュが行く先だ。父親とは折りあいが悪く、ここ数年顔も見ていない。できれば会いたくはないが、用件が用件だ、仕方がない。
 だが灰の舞うせせこましい街並みを抜け、山をいくつも越え、車窓からの景色が雄大な大地に変わってくると、不思議と荒んだ心もやわらいでくるのを感じた。
 第三セクター鉄道が未だ残る数少ない土地。数年ぶりの郷里はさすがに懐かしい。
 久しぶりに訪れたオーベルジュは意外にもにぎわっており、戸惑いながら入って行くと見知った顔のメイド長、セリが驚いてやって来た。
 母親不在のリクドウ家でツバキの面倒も見ていた、彼にとっては乳母のような存在でもある。とっくに還暦を超えているはずだが、どすどすとした足音は相変わらずかしましい。
「まあ、バ……ぼっちゃま! 無事でいらしたんですか」
「ああ、まあいちおうな……おい今、馬鹿ぼっちゃまて言おうとしただろ」
「いえいえ、ただ数日前まで、警察軍がぼっちゃまの行方を捜してアケイシアまでやって来ましてねえ。いえ、わたしどもはぼっちゃまの無実を信じてございますよ? それで、てんやわんやだったもんですから」
 他の使用人もくすくすと笑っている。
「……そりゃ、めーわくかけたな。親父は?」
「厨房で、シェフと新メニューの打ちあわせ中でございます。書斎でお待ちになっては」
 ツバキの指名手配のニュースが流れたのだからある程度予測はしていたが、やはり警察軍はここまで来たのだ。そのうえで、職員たちのあの対応。
 ある意味、信用してくれてはいるのだろう。
「そうだ、些細な蔑称なんか取るに足らねェ……くそっ。ぜってーアレ、親父の入れ知恵だ」
 書斎で待つこと十分、リクドウ卿が靴音高くもどって来た。髪にはところどころ白いものが混じってはいるが、恰幅がよくアカザと同じくらいの体躯はある。
 リクドウ卿はどかりとソファにすわると、櫛で髪を後ろになでつけながら足を組んだ。
「何だ、ツバキ、めずらしいな。何の用だ?」
「——金貸してくれよ」
 勝手にキャビネットの高級酒をグラスに注ぎながら即答する息子に、リクドウ卿は片眉を上げる。
「久々に顔を見せたと思ったら金の無心か。相変わらずの馬鹿息子だな。指名手配なんぞされおって。おかげでこっちの宿にも大打撃だわ」
「客、入ってんじゃねーか」
「これでも減ったんだよ。王党派のキャンセルが相次いでな」
「そりゃ……悪かったな。全部片づいたら、おれアケイシアにもどって、ここ手伝ってもいいぜ」
 どのみちもう、近衛連隊はクビだろう。無実が証明されても、一度指名手配された人物を雇ってくれるところなど、そうそうあるわけがない。
 故郷の懐かしさに、ふとツバキはそんな気持ちになった。
 神妙な態度のツバキをリクドウ卿は黙って見やると、ふっと小馬鹿にした笑みを浮かべる。
「お前、任務で何かヘマしたな? 勝手に家飛び出しといて、仕事につまずいたら実家を頼るたァ情けねェ。あまったれんじゃねェぞ。お前の居場所なんざここにはねェからな」
「た、頼ってなんかねェ! おれはいつか城を買いもどし、爵位に恥じないリクドウ家に建て直すんだ!」
 カッとなって、グラスを置いて立ち上がる。
「建て直してどうする? こんな時代だ、またいつクーデターが起きるやもしれんぞ。そうなったら、爵位なんぞ何の役にも立たん」
「だからって、親父はこのままでいいのかよ!」
 ツバキは書斎の机を威嚇のように強く叩いた。だがリクドウ卿はぴくりとも動じず、朗々と答える。
「このままじゃない。おれも城を買いもどし、今度はそこでオーベルジュを開く。給金を払えなくなっても、城からついて来てくれたやつらのためにな」
 セリを初め、ツバキが小さな頃から城に勤めていた見覚えのある顔が、確かに何人か館内にいた。
「——何だよ、地位より人脈とかあまっちょろいこと言ってっから、女にも逃げられ、土地を手放すはめになったんじゃねェのかよ」
 父親の方針を認めたくない気持ちが、舌打ちに出てしまう。リクドウ卿はそんなツバキのささやかな反抗など、歯牙にもかけないふうに鼻で笑った。
「ツバキ、お前がいずれ後を継ぎたいなら、そのときはそのやり方でいけばいい。だが今はおれの代だ、お前のターンじゃない。それにお前はまだ世間を知らん。軍人でも何でもヘマを重ねてもどって来い」
 そして腕時計を見ると、時間とばかりにさっと立ち上がり出て行った。

 ——世間知らず。
 アカザにも言われた。安全だと思っていた旧市街が、危険区域だった。コミューンの海岸線では、本物の尾行に気づかなかった。
 ツバキは自分の手のひらを見つめた。父やアカザの手に比べ、一回り小さくうすっぺらだ。ぎゅっと白くなるほどこぶしをにぎり、うつむく。
(こんなんじゃ、何もつかめねェよな……アカザの言う通り、本当に非力だ)
 ポーチのベンチで佇むツバキに、セリが声をかけて来る。
「馬鹿ぼっちゃま、お茶でもいかがですかね」
(そうだよ、もうはっきり馬鹿と言ってくれたほうが……)
「いいわけあるか!」
 弱った心身のせいで危うく認めてしまいそうになったツバキが、額に縦線を醸し我に返る。
「ほっほ、調子がもどったようでございますね。旦那さまから、これをお預かりしております」
 セリが札束の包みをツバキにわたす。その重みに驚いたツバキは、包みと彼女を交互に見やった。
「こ、こんな大金……!」
 とたんに、さっと札束をセリがまた取り上げる。
「わたくしが、旦那さまに交渉して参りました。旦那さま曰く、試合で自分を負かしたら貸してやる、だそうです」
「親父と試合? ——剣戟か?」
 リクドウ卿はアケイシアでは第一の剣の達人だ。だがすでに現役は引退しているうえ、ここ十年は宿泊業に専念していたため、剣など書斎の壁の飾りである。
 一方ツバキは入隊したばかりとはいえ、近衛連隊の中では上位を争うかなりの剣の使い手だった。
 ただし模範試合で、ハオウジュ将軍の『髪の毛』をうっかり剣先がかっさらってしまうというハプニングのせいで、彼からは目の敵にされており、以来一切試合に出させてもらっていない。
 そんな挿話はともかく、承諾しない理由はなかった。
「いいぜ、やってやるよ!」

 試合は中庭の広場で行われることになった。幸い今日は風向きもよく、灰も舞っていないので、裸眼で臨むことができる。
 どこで聞きつけたのか、オーナーとその息子の交戦が見られるということで、ギャラリーはにぎわいを見せていた。
 リクドウ卿は敢えて着替えもせず、蝶タイにタキシードのままだ。その余裕ぶりが、またツバキの癇に触った。
「ルールは簡単だ。互いの胸につけたこの胸章が、先に割れたほうを負けとする」
 リクドウ卿にわたされた、家紋のバッジを胸につける。触るそばからざらざらする、安っぽいちゃちな玩具だ。
 芝生にはやはり剣が二本、用意されていた。公平を期すためか、リクドウ卿が先に取れと促す。ツバキは取った剣先をまじまじと確認し、躊躇うように父を見た。
「……おい、刃が潰れてねーぞ。コレ真剣じゃねェか」
「男同士の勝負にイミテーションを使ってどうする。それとも、怖気づいたか?」
 挑発するようなふくみ笑いに、ツバキは一気呵成に攻め込んだ。
「るせェ! ガタの来た中年親父に長期戦はキツいだろ、一気にカタをつけてやるぜ!」
 踏み出したツバキの胸に、リクドウ卿が軽く一閃を切る。
 ——ぽすっ。
 剣先が触れたか触れないかの風圧で、ツバキのバッジはほろりと割れて地面に落ちた。
「おーっと、早くも試合終了かー?」
 レフェリーよろしく、箒をマイクにアナウンスするメイド長に、観客がどっと沸く。
「ちょ、ちょっと待て! 当たってないのに割れたぞ、今!」
「ルールはルールだ。残念だったな、ツバキ。男は引き際も肝心だ」
 剣を鞘に収め、さっさと退場しようとするリクドウ卿の肩を、ツバキがぐいと引きもどす。
「——待て親父。そっちのバッジも見せろ」
「え」
 動揺が窺えるリクドウ卿のバッジをツバキがさっともぎ取ると、明らかに自分のものとは違う硬い材質。割れたツバキのバッジは、よく見ると砂糖菓子でできている。
 ツバキはわなわなとバッジをにぎり潰した。
「……イカサマか、てめェ!」
「リクドウ卿、レストランのオリジナルシュガーで小細工です! 自分はオーベルジュのノベルティで対戦、これにはギャラリーも黙っておりません!」
 セリがふたつのバッジを掲げると、外野は大ブーイングを起こした。
「ふざけやがって、くそ親父!」
「待て待て、今度はわたしが、そちらの潰れやすい砂糖菓子のバッジをつけよう。それでいいだろ?」
 へらへらと嘲笑するリクドウ卿からは、微塵も反省の念が感じられない。
「いいぜ、菓子といっしょに潰してやるよ!」
 ツバキは剣先をシュッと閃かせるとかまえ直し、機先を制そうと攻めかかった。
 まずは正面から。左——と見せかけて右に反転。だがリクドウ卿は、簡単にその切っ先を払い退ける。ツバキが多方向から鋭い突きをくり出すものの、ことごとく剣で躱されるのだ。鋼のぶつかりあう金属音が鼓膜に響き、ツバキは顔をしかめた。
 鍔競りあいで対峙しては旋回、攻撃のくり返し。ツバキは、リクドウ卿のニヤつく表情を払いたい一心で剣をふった。 
「どうした、ツバキ。もう体力の限界か?」
 息が上がっている自分に対して、父は汗ひとつかいていない。抑えた動きで、こちらの剣戟を的確に読んでいるのだ。とてもブランクがあるとは思えない剣さばきだった。
「……くそっ!」
 次第にツバキは焦り始めた。確かに脚や肋骨はまだ完治していない。だがそんな理由は今は通らない。もう外野の野次も聞こえなかった。
 攻めも守りもひたすら激しく、セリもアナウンスを忘れ、戦いの行方を見守っている。
「……やれやれ、ガタの来た中年親父は持久力がないからな。ここらで締めとするか」
 長丁場にうんざりしてきたのか、リクドウ卿がようやく攻撃に転じた。ツバキの隙をつき、足払いをかけ薙ぎ倒す。ツバキは剣を取り落とすが、即座に背面で跳ね起き、リクドウ卿の剣は空を切った。
 ツバキはすばやく剣を足で蹴り上げ、にぎる。が——
「あまいわ!」
 背を向けたツバキの首筋に、切っ先がヒュッと突きつけられた。襟足の髪がぱらぱらと舞い落ち、ギャラリーは水を打ったように静まり返る。
「剣を捨てろ、ツバキ」
 言う通りにするしかない。ツバキの手からするりと剣が落ち、地面に突き刺さる。リクドウ卿は満足げに勝ち誇った笑みを浮かべた。
「こっちを向け、ツバキ。己の非力を思い知ったか。お前などわたしから見れば、まだまだ殻つきのヒナのようなものだ。だが成長とはそれを受け入れることから始まり——」
 ——ピシュッ。
 突然、後ろ姿のままのツバキの脇から何かが噴射された。
「——な!?」
 リクドウ卿の砂糖菓子のバッジが、砕けて地面に落ちる。ニヤリと笑いふり返ったツバキの手には、アニスの水鉄砲がにぎられていた。
「——話が長いのも、中年親父の悪い癖だぜ?」
 とたんに、中庭に歓声が上がった。リクドウ卿がツバキに食ってかかる。
「ル、ルール違反だ! バッジは剣で割ると……!」
「言ってねェし。それにルールについて、てめェが言うか?」
「——ジャッジ! バンカー(勝者)、ツバキ・リクドウ!」
 有無を言わせないセリのコールに、外野は大音声でさらに湧いた。

「これは、約束通りぼっちゃまにおわたししますよ」
 オーベルジュのロビー。セリからツバキの手に札束がわたるのを、リクドウ卿が恨めしげな目で見ている。
「旦那さま、子どもの前で往生際が悪いですよ。わたしから見れば、どっちも子どもですよ、まったく……」
 ぶつぶつとセリが厨房へもどって行く。ふたり残されると特に話すこともなく、気まずい沈黙がロビーの一角を覆った。
 リクドウ卿が煙草をくわえながら、話を切り出す。
「……あー何だ、何のために金がいるんだ。女か」
「は、親父といっしょに——」
 いや、確かにふたりの『女』のためだが、そこはニュアンスが違う。言い淀んでいると、リクドウ卿がさらに訊いてきた。
「恋人でもできたか」
「そんなんいねーよ」
「だろうな馬鹿め」
 呆れたようにふーっと煙草をふかす。ケンカ売ってんのかと睨み返すと、父親は生あたたかいまなざしで息子を見つめ、
「——ま、どんな馬鹿になるかはお前次第だな」
 と片手を上げ、もどって行った。

 アケイシアへ来て翌日、ツバキは帰りの列車をホームで待っていた。
(とにかく、これでアオイの治療費が出せる)
 改めて札束を確認すると、安堵で胸がほっとする。が、
(アニス博士も、今度こそ学院へ送り届ける)
 そう考えると、今度は鉛のように重くなった。
 そうだあれは仔猫だ、預かっていた仔猫にちょっと情が湧いて、返したくないのと同じだ、と自分に言い聞かせていると、
「猫が何ですって?」
 セリが駅舎から出て来た。
「いや、この駅も猫駅長がいればいいなと」
 ごにょごにょとしたツバキの言い分など聞いていないように、セリはリネンのクロスで包んだバスケットをどんとわたす。
「はい、馬鹿ぼっちゃまの好きなクラブハウスサンドイッチですよ。揚げたポテトもたくさん入れておきましたから。列車の中でお食べになって下さいね」
「はいはい、もういいよ、馬鹿で」
 あきらめたようにツバキが肩をすくめると、セリは失礼します、と隣りにすわった。
「馬鹿は一生変わりませんです。旦那さまも、ぼっちゃまに負けず劣らず馬鹿な方ですから。正攻法では、あなたたち親子は生きられないんでございましょう」
「……そうか、一生変わんねェのか。じゃあしょーがねェな、ははっ」
 アケイシアの広い空を見上げ、気が抜けたようにツバキは笑った。
「旦那さまから伝言でございます」
「金は返せ、だろ」
「さすがです、馬鹿ぼっちゃま」
 真面目な顔のセリの肩越しに、白い列車がうねって来るのが見えた。ホームに軽く手を上げ乗車する。見送るセリが小さくなって、列車は空気の澄んだ高原地から、またごみごみとした灰の街へツバキを運ぶ。
 当面は、そこがツバキの生きる場所だった。