2113年 8月某日
 この国は、神の加護がないという。
 そんな世界で、どうすればすべての国民が幸せに過ごせるのか。
 わたしの仕事は、我が国の国民総幸福量(GNH)を増やすことである。
 見解を募るべく、まずは身近な侍女に聞いてみることにする。

 
 2130年 6月
「アニス!」
 足音を立てずにそっと入ったのだが、部屋に辿り着く前に頓狂な声に止められた。
 舎監であるこのシスターはいったいいつ休んでいるのか、寮生の行動に逐一目を光らせている。
 薄灯りの廊下でアニスは肩をすくめふり向き、きまり悪そうに頭を下げた。
「——シスター・シキミ、こんばんは」
「こんばんは、じゃありません。こんな夜遅くに何をしていたんです、アニス」
 シスター・シキミの鋭角な色眼鏡が、手に持ったランタンの灯に反射する。
「すみません、ちょっと眠れなくって」
「眠れないと、どうしてそんな格好になるのかしら」
 アニスの白いナイトウェアは、ホラー映画の悪霊のように裾が泥だらけだった。
「いえ、あの、これは……」
 中庭にある一晩しか花を咲かせないサボテンの一種を観察に行っていたんです、と一晩かけて説明したところで、彼女には一生わかってはもらえないだろう。
 小さく開いたいくつかの個室のドアから、少女たちがくすくすと笑い声をもらしのぞいている。
「消灯時間はとっくに過ぎてますよ。みんな早くお休みなさい!」
 シスターの手を打つ合図に、一同があわててベッドへもぐり込む。寄宿舎の誰もが、この「変わり者」のクラスメイトと距離を置いて近づこうとしなかった。
「アニス、あなたは後で舎監室にいらっしゃい」 
「あっ、お話なら今……」
 じろりと眼鏡の奥から睨まれ、やはりお説教なのか……とアニスは肩を落とした。
 舎監室に呼ばれるのは、もういったい何度目だろう。
 この部屋をノックするのもすっかり慣れてしまった。

「入りなさい」
 中から抑揚のない声がしてドアを開けると、意外にもあまい香りに迎えられアニスは驚いた。舎監室はいつも、つんとしたハーブの清涼な香りが漂っているのに。
 あたたかなカップが目の前に置かれ、アニスはいささか面食らって目をまるくする。
「どうしたの? お飲みなさい」
 シスターはアニスが戸惑いながらもカップを口へ運ぶのを見ると、ホットミルクの湯気にため息を混じらせ、口を開いた。
「——アニス・リィ、あなたは成績優秀で真面目な生徒です。正直、普通教科で教えることはもうありません。今は女性も自立する時代、大変結構。土地を手放す没落貴族もいることですし、殿方に頼る世の中でもありません」
 ほめられて照れるアニスを、三角眼鏡がきらりと睨む。
「普通教科だけです。今日はマナーの授業でしたね?」
 お客さまにお茶を出すという、実践の授業。茶托を湯呑みにくっつけたまま出し、担当教師に注意されたアニスは、意気揚々とその理由と改善策を述べたのだ。
「接着は、茶托と湯呑みの間の温度の上昇によって起こります。これを回避するためには、お茶の温度と茶托の形状を考える必要があり、これによって効率のよい——」
 教室は失笑の嵐だった。憤慨する担当教師が報告した状況を安易に想像できたシスター・シキミは、額に手を当て言った。
「……そう、あなたは奇行が目立ちすぎるの。こんな夜更けまで起きているのは、今夜だけのことではないでしょう。いつも顔色が悪いですからね」
 自分が不健康な生活をしているのは、重々承知だ。「顔色が悪い」頬をぽりぽりとかくアニスに、シスター・シキミは淡々と続ける。
「わたしはあなたの母親ではありませんが、ここを卒業するからには、わたしはあなたを品行方正なレディに躾けるつもりですよ」
 
 アニスは、小さな頃から知識欲の高い子だった。唯一の家族である母親は彼女が生まれてすぐに亡くなり、教会裏の墓地で眠っている。
 身よりのないアニスは、教会の援助金で成り立つこの女学院の寄宿舎で育てられた。
 見るものすべてに「なぜ、どうして」を連発するので、手を焼いたシスターたちはついに六法全書ほどの厚さのある辞典を、わずか六歳の少女に買い与えた。
 そもそも、アニスは変わった子どもだった。
 その年頃の女の子はお人形さんやおままごと、着せ替えゲームなどで遊ぶものだが、彼女の興味の対象は昆虫や草木の生態、空や海など自然に関することで、放っておくと日がな一日夢中で虫を追いかけたり、雲の動きを観察したりして過ごした。
 特に好きなのはもの作りで、時間さえあれば風を計算しながら手作りの凧を上げたり、薬草を使って簡単な薬などを作ることに費やした。
 同年代の子どもたちも周りの大人も、そんなアニスを呆れて相手にしなかったが、彼女は十歳で生物学、地球科学、物理、天文など自然科学を学び、中等部を卒業する頃には大学院博士課程を修了した。
 だが白衣で学院内を闊歩するアニスを、クラスメイトたちは「リィ博士」と遠巻きに笑って揶揄した。それが、若干十六歳で本物の博士の称号を持つ天才少女に対するやっかみだと、「なぜ」と考えても彼女にはわからなかった。
 自然科学のプロでも、ひとのこころの機微を知るにはまだ幼かったのだ。
「すみません、シスター・シキミ。わたし、育てていただいて感謝しています。でも、わくわくするものを目の前にすると、衝動が抑えきれないんです。もっと、いろんなことを知りたいんです」
 熱弁するアニスにシスターは再びため息をつくと、
「——わかりました。それを飲んだらお休みなさい。明日は墓地の掃除当番ですからね。それから、初夏とはいえ夜はまだ冷えるわ、新しい夜着に着替えて。ひどい格好ですよ」
 と、部屋へ帰るよう促した。
「はい。おやすみなさい、シスター・シキミ」
 すごすごと自室へもどり、鏡を見る。

「ほんとだ、ひどい格好——ふわっくしょい!」
 鼻腔を細かな粒子でくすぐられ、続けざまにくしゃみが出た。防具をつけないで外に出たので、目も痛むしのどもイガイガする。
 外は降灰だ。せめてマスクくらいはつけていけばよかった。編み込みをひっつめた髪にも灰が積もって白髪のようだ。
(同じ灰かぶりでも童話のお姫さまとは大違い。こっちは、ただの冴えない女の子だもの)
 身に纏っているものも、レースのドレスなどではなく、ただの着古した木綿のナイトウェア。
(でも——)
 闇に浮かび上がる白い優美な花弁と濃厚な香りを思い浮かべ、アニスはうっとりと頬を染めた。
(月下美人、すごくきれいだった)
 きれいなものを見ると、自分も少しは浄化される気がする。ただおだやかに過ぎてゆく日々の違和感も、身の置き所がない息苦しさも消え、呼吸がスムーズに流れるのを感じる。
 気分がいいので白衣に着替え、実験途中の作業を再開した。どのみち今夜は、開花に立ち会えた興奮で眠れそうにない。
 シスター・シキミがまたすっ飛んで来ないよう、灯りはできるだけ絞った。
 ふんふんと鼻歌を交えながら、唐辛子の入った乳鉢をごりごりと懸命に摺り続ける。
 自分で育てた鉢植えから採ったハーブであたたかなお茶を淹れ、アニスが充実感に浸っていると、いつの間にか薄曇りの朝が明け始めていた。

 この国は、灰が降りやまない。
 昼夜を問わずひとはマスクを身に着け、真夏でも砂上を歩くためのマントやブーツが必須である。視界はいつも仄白くかすみ、青空を拝めることはまれだ。
 街では火山灰専用のロードスイーパーが、ゆっくりと滑りながら降り積もった灰を吸引し、その後をついて行くように散水車が道を洗い流してゆく。
 灰は、街から湾を隔てた火山の噴火によってもたらされる。
(『丘』なら、降灰に影響を受けることはないのに)
 誰もが羨望のまなざしで見上げた視界の先には、小山にそびえる巨大なドームが砂塵にけぶって建っていた。
『丘』に居住区をかまえる灰桜(カイオウ)国上位階層区グレーターの住人にとって、おおよその用事はこのドーム内で事足りる。
 企業、学校、病院にショッピングモール。庶民階層区のコミューンにはない、ホテルの屋外プールやオープンテラスのカフェもここでは利用できる。
 地下にはシェルターも設置されているこのドームでは、誰も防具を着ける必要もなく、みなそれぞれ流行りのファッションを楽しんでいる。
 見上げれば、突き抜けるような初夏の青い空。
 丸天井のモニター映像ではあるが、3Dグラフィックで映し出されたリアルな夏雲の演出と温度設定で、じゅうぶん季節感は味わえる。
 雨が降らないぶん、湿度調整も完璧だ。
 そして、小高い居住区にさらに君臨するように建っているのが、王族の住まう桜城だ。
 ぐるりと堀に囲まれたまっ白で高い壁のてっぺんには、はるか昔の戦いの名残りである矢を射るための狭間が刻まれており、常時カメラはグレーターを見はるかし、不法に侵入する者がいないか、日夜見はっている。
 
 そんな完璧な要塞である桜城では今、三人の元老院による首脳会議が、ティーカップを片手に和やかに行われていた。
「——王が崩御されて七日か」
「そろそろ、我が国の嚮後を考えませんと」
「いつまでも玉座が不在では不便ですしな」
「しかしキノコで食中毒とは、王もまことに残念な死因」
「そうですなあ。あ、お茶のおかわりをいただけますかな」
「ではわたくしも」
 やれやれと、みな肩をすくめお茶を飲む。
「……で、どこで仕入れたキノコでしたっけ」
「確かアレですよ、政府主催のキノコ狩りイベントの」
「何やら陰謀を感じますな」
「誰の陰謀だと言うんだ」
 入って来た長靴の音に、一同はさっと口を噤んだ。
「いやいや、別にあなたのことではありませんよ。ウツギ議員」
「いや、もうそういうのはいい。世継ぎのいない王亡き後、王位継承権があるのは確かに彼の実弟であるわたしだ。あらぬ疑いをかけられるのも当然だが……これだけは言っておく」
 ウツギと呼ばれた男性は、コホンと咳払いをするとやおら身を乗り出して言った。
「わたしは政治家で、いっぱいいっぱいなんだ! ぜっったいに国王などやらん!」
「ではご子息のシュウカイドウさまは……」
「あいつはここ数年、自分の縄ばりから一歩も出て来ん。十八にもなって引きこもったままの息子に、国務が務まるか」
「ですが、王家の血を継ぐ者は他におりませんよ。こうして我々を召集されたということは、何か提案がおありなのでしょう」
 眉をしかめる元老院のひとりに、何か言いかけてウツギは口を閉じた。
 献身的に政務を司るものの万年疲労気味のウツギ議員は、野心家で我の強い近衛連隊最高司令官、ハオウジュ将軍と対照的にメディアで取り上げられることが多い。
 それゆえ、日々自分に圧をかけて来るこの老人たちが、ウツギは苦手だった。
 国王になどなったら元老院だけではない、貴族の支持も必要とされる。毎日彼らの望む裁決に頭を悩ませなくてはならない。
 そんな重責にウツギは耐えられる気がしなかった。
「千人目の世継ぎは王国を開く者——」
 ようやくウツギが口にした言葉に、元老院らが顔を見あわせる。
「それは——我々ですら失念しておりました、カビの生えた古い言い伝えですな。どうされました、いきなり」
 国が創生された遠い昔、三賢者が残した言葉を初代国王が城の地下に彫らせたという。三賢者のレリーフとともに石碑に残るその言葉は、重役連も一度は目にしているはずだ。   
 だが地下自体忘れられた場所であり、価値観の目まぐるしい現代において予言のような碑文など、誰も気に留める者はいなかった。
「だから……次に王国を継ぐ者が千人目なのだ」
 ウツギは難しい顔でソファに沈む。
「数えたんですか閣下。ヒマですな」
「そんな眉唾ものの伝説にまですがるとは」
「よほど国王をやりたくないと見える」
 容赦ない突っ込みに、ウツギは顔をまっ赤にして立ち上がった。
「違う! 本当に継承者はいるのだ!」
「どこにそんな者が? 聞いたこともないですぞ」
「初耳なのも無理はない。これはわたししか知らん出来事だったからな」
 会議室にざわめきが走った。
「実は兄は十七年前、おつきの侍女とただ一度、過ちを犯した。彼も若かったのだ。なのになぜかその後伴侶を得ることもなく……」
「モノローグは結構。で、その侍女は今どこに?」
「確かスイレンといったか——彼女はコミューンで女児を生んだ後、姿を消した。スイレンの娘は、生きていれば十六になる」
「それだけでは、名前も行方がわからんではないですか」
 元老院の面々は、呆れて目配せをした。
「だから何とかして、その子を捜し出すのだ!」

 早速、コミューンの駐在員から民生局、近衛連隊総出で捜索が始まった。
 今年、近衛連隊に入隊したばかりのツバキは、ゴーグルをつけ指令書を片手に、コミューンの市民街を当てもなく歩いていた。
 短く刈られた黒髪はすでに灰をかぶり、真新しく少しゆるい黒の軍服も刷いたように白い。
「名前もわからないやつをどうやって捜すんだ。十七年前なんて、おれまだ二歳の幼児じゃねェか」
 不満気な口調にはまだ少年の名残りがあるものの、褐色の肌に見開いた三白眼の瞳には野性的な迫力がある。
 ゴーグルをはずせば、すれ違う者は関わりあいにならないよう、そそくさと顔を逸らせて行く。
 指令書に記されている内容は、件の侍女スイレンの古い写真と簡単な経歴のみだ。写真はモノクロで髪や瞳の色さえわからないが、少女を捜し当てた隊員には膨大な賞与が約束されている。
(おれには目的があるんだ。何としても見つけ出す)
 こぶしを固めたツバキの脇を砂地仕様のサンドバイクが駆け抜け、積もった灰がさらに舞い上がった。
 マスクを着用していなかったため、口中に入った灰粒を苦い顔で吐き出すツバキに、急停止したサンドバイクから見知った声がかかる。
「ツバキか? 今からレイド戦やるからお前も来いよ」
「見てわかるだろ、仕事中だっつーの。ゲームやってるヒマなんかねェんだよ」
「おめーマジで近衛連隊入ったの?」
 ツバキの少し大きめの軍服姿をげらげらと笑い飛ばすドレッドヘアの青年は、郊外が実家のツバキと違って、市民街の出身だ。
「あーちょうどいいや。ちょっと訊きてェんだけど、コミューンの内情に詳しいやつっている?」
「そりゃおめー……」
 悪友に連れられて行った先は、近代的に区画整理された商業地区より、さらに奥まった繁華街だった。目的の店舗はといえば、自販機にはさまれたこぢんまりとした造り。
 店といっても小さなショーケースが軒先に面しているだけで、いったいどんな客層に需要があるのか、洗剤や切手、輪ゴムや小菓子という、とりとめもない日用雑貨が売られている。
 友人曰く、「生き字引のババァだが、自分が生まれた頃からババァだった」という驚異の店らしい。
「しかもただのババァじゃねえからな、気をつけろよ」
 こそっと耳打ちをすると、彼はさっさとと逃げて行った。
 そんな助言をされると、返って身がまえてしまう。ツバキはピシリと襟を正すと指令書の写真を見せ、咳払いをして声をかけた。
「あー、すみません」
「——」
 競馬新聞から顔を上げた店の主は、大きな色つきサングラスに鮮やかな紫のアフロヘアという、確かに「ただのババァ」とは違う派手な老婆だった。
 服装もこれまたけばけばしいサテンのチャイナドレスに、ちぎれんばかりの耳飾りをじゃらじゃらとぶら下げている。
 皺の刻まれた顔や指にもまっ赤な口紅とマニキュアが施され、もはや妖怪じみていた。
「あのー、このひと知りませんかね」
 相手はこちらを見向きもしないが、ここで引き下がっては捜査にならない。
「あ……じゃあ、そこの板チョコを」
 老婆はじろりと胡散臭げにツバキを見上げると、陳列棚から箱ごと板チョコを取り出し袋に入れた。
(……全部買えってか?)
 経費で落ちることを期待しつつしょうがなく清算すると、老婆はツバキの持っていた指令書を取り上げ、くつくつと笑った。
「くだらんお家騒動だねえ。その娘を見つけてどうする。十六の少女に国をおしつける気かい」
「……王女を捜すのが自分の任務っスから」
「早く一人前になりたいんなら、お前も任務の意味くらい自分で考えな」
 よく知りもしない赤の他人に説教をされ、ツバキは不快気に眉をしかめる。
 そんなツバキをもう一度ニヤリと笑うと、老婆はパソコンのキーボードを慣れた手つきで打ち出し、ある住所の書いた一枚のメモをショーケースの上に滑らせた。
「手がかりはここだ」
 
 ツバキが記された住所の場所へ行ってみると、そこは郊外の丘陵に広がる、だだっ広い教会墓地だった。
 ツバキはゴーグルを上げ、墓地を一望する。
「……あんのババァ、板チョコ大人買いさせやがった見返りがコレかよ」
 彼女は、すでに亡くなっているということか。
 腹立たしい思いでチョコの銀紙をむいてかじるが、賞味期限が切れたチョコは白く脂肪分が浮いており、風味がかなり落ちていた。
「くそおっ!」
 袋ごと地面に叩きつける。ふと顔を上げると、墓石の向こうから露骨に眉をよせてツバキを見つめる制服姿の少女がいた。
 手には白い花を持ち、誰かの墓参りに来たように見える。
「あの、ちょっと」
 唐突に墓石を飛び越えて来たツバキに肩をつかまれ、少女はマスク越しに悲鳴を上げて仰け反った。
「キャアアア! 痴漢、痴漢よお!」
 初対面の人間なら思わずたじろぐ目つきの悪さだ、仕方がない。
「いやいや、違う、ちょっとだけ、ちょっとだけだから静かに……」
 我ながら、不審なアプローチだなと思った瞬間——
 バシィ!
「い、痛って……」
 後頭部にしこたま打撃を受けた。ツバキがふり返ると、白衣の少女が箒をかかえ心もとなげに立っている。
「……そ、その手を離しなさい」
 ツバキの凶相がよほど怖いのか、青ざめてがくがくと足はふるえ、箒を持つ手も頼りない。ひっつめた髪は、恐怖ではらりと落ちかけている。
 哀れに思ったツバキは逆に気遣い、笑顔で応対した。
「まあ、落ち着けって。怪しいもんじゃねェよ、おれ軍人だから」
「軍人が痴漢を」
「いや、だから痴漢じゃねーって——」
 突然、ツバキの視線は、少女の首のある一点にすい込まれた。
(首すじに、みっつのほくろ……?)
 ——が、いきなり少女にシュッと何かをふきつけられ、ツバキはわめき声をあげ目を覆った。
「ぐわっ、何だコレ! 目がっ——顔が痛ェ!」
 ツバキがごろごろと地面をのたうち回っている隙に、アニスはもうひとりの少女をともなって駆け出す。
「あっ、待て! この——!」
 ツバキはよろよろと覚束ない足取りで追いかけたが、目と顔が燃えるように痛み、断念した。
 だが、制服は覚えている。あれは『聖マツリカ女学院』のものだ。正規の手続きを踏んで連れて来れば、問題はない。
(あの女——)
 ツバキには、ひとつの確信が生まれていた。痛みが引いて来たので、墓石につかまり立ち上がる。
「しっかし都会では、軍人でもないただの女子高生が兵器を持ち歩いているのか。怖ェ」
 投げ捨てたチョコをひろい、ばりりとかじる。
(見てろよ、おれは必ず)
 とりあえず、ツバキは老婆に胸中で礼を述べた。

 ツバキが桜城へもどると、王宮は何やらめずらしくにぎわいを見せていた。
 近衛連隊上層部と元老院、ウツギとその細君ユウカゲが揃ってホールで祝杯を交わしている。
 ユウカゲはその名の通りひっそりとした女性で、夫を影で支え、内助の功を果たして来た妻だ。
 もともとは王家専属の医師で、自律神経失調症で鬱に陥ったウツギを献身的に看たことから、彼に見初められたという。
「これであなたも、心置きなく政務に打ち込めますわね」
「ああ、ひとまず肩の荷が下りた」
 ツバキは先にもどっていた同僚のハッカに、不思議そうに尋ねた。
「何かあったの?」
「お、お前、どうしたの その顔!」
 少女にふきつけられた怪しいスプレーのせいで、ツバキの目は泣きはらしたように赤らんでいた。顛末を説明するのも情けないので、話を逸らす。
「い、いや、灰溜まりに顔から突っ込んでよ……それより何? この騒ぎ」
「それがさ」
 ハッカが答える前に、ウツギが上機嫌な歓声をあげた。
「ハオウジュ将軍、紹介を!」
 へぇあのひと、あんな明晰な声も出せるんだ、とツバキが何の気なしに人だかりの中心を見ると、上品なワンピースに身を包んだ少女がウツギのそばに控えている。ハオウジュ将軍の、バリトンばりの中低音が王宮に響きわたった。
「みなさん、ご注目頂きたい! 灰桜(カイオウ)国の新しいプリンセス——」
「そんな馬鹿な!」
 ——一瞬ホールが凍りつき、その場にいた全員の視線が声を発したツバキに注がれた。プリンセス、とやらも冷ややかな目つきで睨んでいる。ハオウジュ将軍がかすかにこぶしをふるわせて言った。
「……ツバキ・リクドウ二等兵。この場で異を唱えるからには、お前は王女に心当たりがあるのであろうな」
「はっ、自分は今日コミューンで——もがっ」
「あっすみません。こいつ今、寝起きで寝ぼけちゃって。お騒がせしました!」
 苦笑するハッカに無理やり口をふさがれ、ツバキはずるずると兵舎に連れて行かれる。
「——ぶはっ、何すんだ、ハッカ!」
「馬鹿なのかよ、ツバキ! お前、ただでさえハオウジュ将軍の印象悪いだろ。下手なことを言って、入隊早々クビになりたいのかよ!」
 春の模範試合で、ツバキがハオウジュ将軍にとんでもない恥をかかせたのは、まだ記憶に新しい周知の事実である。
「王女は、将軍自ら見つけて来たんだぞ。出生証明書からDNAまで間違いはないんだ」
「……そりゃ、おれはあの子のDNAまではわかんねェよ」
「あの子?」
「聖マツリカ女学院の学生だよ。コミューンのヌシのババァから情報もらってよ、教会の墓地で見つけたんだ。そんときゃ、痴漢に間違われて連れて来られなかったけど。でも、スイレンと同じ場所に同じ数のほくろがあったんだぜ」
「そんな理由で王女だって定めたの?」
 ハッカが肩をすくめため息をつくが、ツバキは興奮気味に笑いが込み上げた。
「あとよ、目がそっくりなんだよ、亡くなった王に。あの子は、山猫みたいな金色の目をしてた」
「王なんて、入隊式のとき遠巻きに見ただけじゃないか。当てにならないよ」
 だがそれは、ツバキにも説明できない勘だった。
 ふるえながらも、自分を睨みつけたときの少女のあの目。嵐の渦中にでも突っ込んでいきそうな強いまなざし。
 確かに直々に王に謁見したことはないが、そこに宿る光に同じ繋がりを感じたのだ。
 そんなふたりの話に、兵舎のすみで聞き耳を立てる影があることを、彼らはまったく気づいていなかった。

 墓地に痴漢が出たという話は、瞬く間に学院に伝わった。教会の援助を受けている聖マツリカ学院は、ここの墓地の清掃や管理を当番制で行っている。そんな学院の管理下で桜城の近衛兵が不埒な行為を働いたとあれば、王室にも関わる大問題だ。
 早速翌日、シスター・シキミを筆頭に、アニスも桜城に出頭した。
「——う、うちの近衛兵が痴漢行為を、ですか?」
 報告を聞いたウツギは、おろおろしながらハオウジュ将軍に目配せをする。
「それが事実なら、厳しく処罰せねばなりませんな。で、その者の顔は覚えておりますかな」
「お、覚えています……日に灼けた若いひとでした」
 将軍に訊ねられたアニスは、おずおずと答えた。
「では少々時間を頂きたい。ハッカ・ヨシノ二等兵!」
「は——はい!」
「下士官以下の者をすぐに召集しろ。グレーターの衛兵も呼びもどせ!」
 ちょうど王宮の警護勤務だったハッカは、青くなってその場を飛び出した。
(あの子が、ツバキの言ってた王女(仮)? いや、そんなことよりマズイぞ、早くツバキに知らせないと……!)
「そ、その間、係の者に城を案内させよう。それとも、お茶とお菓子でティータイムがよいですかな?」
 桜城の評判を何とか保ちたいウツギは、にこりともしないシスター・シキミのご機嫌取りに必死だ。
「ではお茶を——」「あの、わたし、お城が見たいです」
 びくびくしながらもすかさず挙手するアニスに呆れながら、シスター・シキミはうなずく。
「……では、アニスは見学させて頂きなさい」
 結局アニスひとり、初老の大臣の案内で城を回ることになった。
 普段は立ち入ることのできない王室の大バルコニーや礼拝堂、舞踏会も行われるメインホールなど、見たことのない豪奢な作りに、アニスは興奮が治まらない。
 だがアニスにはもうひとつ、どうしても行ってみたい場所があった。
「図書館、ですか?」
 若い女の子が興味を持つような場所ではないので、大臣は初め少々面食らった。
 しかし五百万冊を誇る王立図書館の蔵書を、世間に広めてもらって損はない。重々しいドアが開かれ、アニスは中へ通された。
 そこは、膨大な本棚に囲まれた迷宮だった。書籍が幾重にも地層のように連なり、上方の本を取るために恐ろしく長い梯子がかけられている。
 天窓から射し込む光のほかは、各コーナーに設置されたランプが仄かに光るだけの荘厳な空間。
 大半は誰にも借りられた形跡がないが、学院にはない貴重な本が揃っていてうれしくなったアニスは、色褪せた羊皮紙のカビくさい匂いを胸いっぱいにすい込み、散策に没頭した。
 どれくらいそうしていたのか。あまりに広いため、気がつくと案内の大臣の姿を見失ってしまっていた。
 あわてて貸し出しカウンターへ向かうが、図書館内は閑散としていてよほどヒマなのか、受付もこくりこくりと船を漕いでいる。
 すみの個人用デスクで書物を真剣に読み耽っている青年を見つけ、アニスはそっと声をかけた。
「あ、あのー……」
 ——ガタタッ!
 いきなり現れた白衣の少女に驚いたのか、青年は椅子ごと後ろにひっくり返った。
 両目まですっぽりと覆いかぶさった前髪でもこちらは見えているらしく、警戒するようにじりじりと後退る。
「だ、大丈夫ですか?」
 落とした本をアニスがわたすと、青年はかろうじて平静を保ちながら、何事もなかったかのように椅子を立て座席にもどった。
「も、問題ない」
「その本、おもしろそう」
 興味深げにのぞき込むアニスにびくりと青年は顔を上げ、躊躇いがちに口を開く。
「……な、なぞなぞだ。正しい答えを三つ、指定のブロックに書きまた壁にはめ込むと、仕掛けで図書館に新しい階層が開けると言われている」
「誰がそんな仕掛けを?」
「な、亡くなった国王だ。変わり者だったが、グレーターにドームやを作った天才で……」
「ほんとに新しい階層が?」
「いや、未だ解いた者はいない。図書館を利用する者の知識によって、本が増える仕組みだと言うが——信じられん」
(そんなの——試さずにはいられないじゃない!)
 アニスの目に、光速で問題文が飛び込んできた。

 ハイランドから帰る途中
 アップルパイをひとつ買った
 りんごをふたつ、道で拾って
 りんごをよっつ、クマにもらった
 いつつ、木から落ちて来る
 りんごみっつでパイひとつ
 アップルパイは全部でいくつ?

「ただの童謡ではない、裏がありそうで難しいのだ」
「難しく考えることないです。ストレートな引っかけ問題ですよ」
 アニスはにっこり笑うと、ペンを取った。
「パイはひとつ、ひとつだけ——」
 答えを書いたブロックを壁にはめると、突然館内に振動が走り、軋んだ上層部に見たことのない本棚が一段追加された。
「——す、すごいわ!」
 ぱらぱらと落ちて来る埃も気にせず、アニスは興奮して顔を上げる。
「だ、だがりんごは全部で——」
 腰を抜かしたように椅子によりかかる青年に、アニスは楽しげに解説した。
「『アップルパイ』は買ったひとつだけ、です。いくつりんごを手に入れても、パイを焼いたとは言っていないもの」
 青年はあわてて本をめくった。
「ま、待て、まだある——これは!」

 皮をはいでもわたしは泣かない
 痛くはないの
 でもあなたは泣くのね?
 わたしはだあれ?

「わかった、『わたし』はタマネギ!」
 アニスが同じように答えを書き込んだブロックを壁にもどすと、再び新たな本棚が出現した。
 青年は初め面食らって声も出なかったが、
「き、きみはいったい……」
 前髪の間から、初めてまじまじとアニスを見た。勢いがかって、次の頁をめくる。
「こ、これが最後の問題なんだ! これもさっぱり——」
『重くて軽い、長くて短い、苦くてあまい。それなんだ?』
「まあ、これは難しいわ……何かしら」
 ふたりが考え込んでいると、
「いた——お前!」
 突然静寂を突き破る大音声が図書館に響き、アニスたちは飛び上がって入り口を見た。
 息を切らせた短髪の近衛兵が、大きくドアを開けたままこちらを指さしている。
「同僚から、お前が城に来てるって聞いた。ちょっといっしょに来てもらうぞ」
 褐色の強い腕につかまれ、アニスはふり解こうとじたばたと暴れた。
「ななな何するんですか、この痴漢!」
「ち、痴漢なのか? その近衛兵は」
 驚いて聞き返す青年に、ツバキがあわてて弁明する。
「違いますって! あーもう、お前とにかくいっしょに……!」
 唐突に、パン、と高らかな破裂音がして、アニスのひっつめ髪がはらりとほどけた。
「……? なあに?」
「——! 机の下に隠れろ!」
 ツバキがアニスと青年に覆いかぶさり床に伏せると、連続した銃声音とともに本が何冊か落ちてきた。
「きゃあっ!」
 頭上、どこか高いところから声が響く。
「やめろ! 王子に当たる!」
 ツバキはすかさず天窓の辺りを見上げたが、逆光でシルエットしか確認できなかった。
(どういうことだ? 狙撃されたのはおれたちなのか?)
「もう、な、何なんです……もぐっ」
 身を低めたツバキは、わめくアニスの口を軍服のスカーフでふさいだ。
「しばらく静かにしてくれ」
 ここにいてはならないと、ツバキの勘が告げていた。
 唖然とする青年を後に、アニスを肩に担ぐと、ツバキは一気に図書館を飛び出した。