2月14日。粉雪がふわふわと舞っている様子を見ながら、僕は朝早く、誰もいない校門の前で、息をついた。
 誰もいない……と思っていたから、少し驚いた。

「あ、あの――」

 僕が振り向くと、いつもは遅刻ギリギリで登校してくる高橋さんが、震える身体で立っていた。
 耳元で2つに結んだ黒髪には、雪の白い光が輝いていた。
 彼女のその潤んだ瞳は、真っ白な雪の色を映して、まっすぐと、僕を上目遣いで見つめていた。
 そして、両手に大事に持つ、『甘い香りの箱』を僕に突き出しながら、小さな……だけどはっきりとした声で、こう言った。

「宮本くんが、宮本唯くんのことが――」

 ――好き。

 僕は、「……ごめん」とだけ言って、『甘い香りの箱』も受け取らずに、教室へ向かった。

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「バレンタイン、俺、女子からなんにももらってねーわー」

「そんな大声で言っても私はあげないからね」

「チョコレート皆の分作ってきたから、ここから好きなの選んで!」

「おーまじか!」

 いつもより盛り上がりをみせる放課後の教室を、僕は他人事のように見ていた。
 実際に他人事だし、仕方ないのだけど。
 そして、逃げるように廊下に出た。
 クラスメイトの楽しそうな会話は、僕の耳には痛かった。

「なんで、なんでお前は、俺よりなんでもできるんだよ。俺だって頑張ってるんだよ!」

 陸上部の中学最後の大会で、僕は優勝してしまった。その時はすごく楽しかった。けど……。
 中学の頃、元友達の武内海人に言われたその言葉で、僕は気づいてしまった。
 僕は、周りの頑張っている皆を、不幸にしてしまうことに。

 幼い頃から物事のコツとか本質を掴むのが得意で、何をやってもすぐにできてしまうのが僕だった。
 勉強も一回授業を聞いただけで理解して、テストで満点を取ることができた。
 音楽に興味を持った時は、約半月で曲を作れるようにまでなってしまったり、絵を描くのに夢中になった時は、夏休みの課題で優秀賞をとったり。

 でも――。

 だからこそ、僕は人と関わるのが怖くなった。
 武内海人の、中学最後の陸上での人生を、壊してしまったから。
 彼は優勝を夢見ていただろうに、僕のせいで、優勝できなかった。
 当の僕は、ただ楽しみたいだけで、それだけの理由で彼のがんばりを無駄にしてしまったんだ。

 僕は、本気で何かをすることが、できなくなった。
 僕は、他人と関わるのをやめた。 

 彼女を振ったのも、そんな理由だった。

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 朝降っていた粉雪は幻だったのではないかと思わせるほど、空は青い空が広がっていた。

「ねえ」

 帰り道、僕を呼び止めたのは、石神玲だった。確か、高橋さんの友達。

「なんで、チョコ受け取らなかったの。あんたのために、凛音はがんばったんだよ。なのに」

「僕は、誰とも関わりたくないんだ。高橋さんに、そう言ってよ」

 僕はそれだけ言うと、呼び止める石神さんの声に聞こえないふりをして歩き出した。
 
 しかし、歩き出したのも束の間、もう一人の人物に、僕は呼び止められてしまった。

「唯っ!」

 僕の目の前に、武内が立っていた。
 高校生になってからは、一度も会っていなかった武内が、僕を待ち伏せしていた。

「武内……」

 僕は、あの大会の日の情景を思い起こす。
 僕が、彼の夢を踏みにじってしまったあの日、僕たちは、友達ではなくなった。

「勝負しようぜ。百メートル走で。俺、今度は絶対に負けないから」

 武内は、すぐそばの公園を指差した。百メートル走ができるくらいは広い公園。
 通り道は塞がれているので、僕に選択肢はないのだろう。

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「もう一回だ」

 走り終わると、武内は無感情にそう言った。

「いや、武内の方が絶対に速かった。勝負は終わったはずだよ」

「情けはいらねえんだよ」

 武内は、僕の目を睨む。あの日の恨みがまだ、晴れていないのだろう。

 しかし、何度勝負をしても、武内は納得せず、「もう一回」と言うばかりだった。
 武内は何連勝しても、その一言を言うだけだった。
 武内の足は、だんだんと、ペースが落ちてきている。

「いい加減にしろ!」

 10回目の勝負を終えて、武内はついに、僕のことを怒鳴り散らした。 

「何考えてるんだよ。昔のお前、そんなんじゃなかったろ!」

 僕は、何も返せなかった。言っている意味が、わからなかったのだ。

「俺の所為なのか……?」

 何も言わない僕の目をみて、武内は言う。

「明日のこの時間、また勝負しろ。その一回で、終わりにする」

 僕は、公園から出ると、もうすっかり暗くなってしまった夜道の中で、考えていた。
 なんで武内は、あんなに勝負をしてきて、今もなお、納得していない様子だったのだろうか。

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「宮本……くん」

 話しかけたのは高橋さん。
 2月15日の放課後、武内との約束のため、教室に残って時間をが過ぎるのを待っていた。
 まさか話しかけるとは思われていなかったので、僕は反応を遅らせてしまう。

「な、何?」

 僕は誰とも関わりたくない。
 そうずっと言って来たのに、高橋さんだけは、いつもクラスで浮いている僕に何度も話しかけにくる。
 それを何度も素っ気なく返してきたのに、彼女はこうやって、いつも僕の前に現れる。

「……チョコ、食べて、ほしいの」

「悪いけど、僕は」

「宮本くん、3年前の夏の、陸上の大会、覚えてる?」

 僕は頷く。その大会はたぶん、僕が武内から優勝を奪ってしまった大会のことだろう。

「私、中学は違ったんだけど……その時の宮本くんに、その、一目惚れ……したの。宮本くんの、走ってるときの楽しそうな顔が、今でも脳裏に焼き付いてる」

 赤面して、聞こえるか聞こえないか……くらいの声で話す彼女を、僕はいつの間にか、ただただ見つめていた。

「高校が一緒になって、クラスまで一緒になった時は、すっごくうれしかった。……なのに、なのに」

 夕焼け色に染まる瞳の奥には、不安とか、哀しみみたいな何かが、入り混じったように揺れていた。

「――どうして、本気になることをやめたの?」

 僕は、その言葉を聞いて、何も言えなかった。
 
「私はね、宮本くんの優勝は、宮本くんの才能だけじゃなかったと思う」

 そうして彼女は、昨日、粉雪の中で僕に差し出した『甘い香りの箱』を、開ける。
 中には、手作りのチョコが入っていた。

「これね、頑張って作ったの。でも、それ以上に」

 高橋さんは、僕の口にチョコを放り込んだ。

「すっごく楽しんで、作ったんだっ」

 チョコレートは、甘かった。口の中でゆっくり溶けていく。僕の内に秘めた感情を、優しく包み込んでくれた。

「チョコ、すごく美味しい。高橋さん、ありがとう。大切なことに気がつかせてくれて」

 僕はそのチョコの入った箱を受け取り、教室を出た。

 昨日、武内が勝負を仕掛けて来たのは、僕に勝つためじゃなかった。
 武内はきっと、僕に負けた日から、恨みを捨てて、努力を重ねて来たんだ。
 そして。

 ――本気で楽しむ僕と、もう一度戦いたかったんだ。
 
 勝ちたいんじゃなくて、楽しみたかったんだ。

 彼女のチョコが教えてくれた。
 だから僕は、もう一度チョコを含んで、公園に佇む武内ににっと笑ってみせて、こう言った。

「絶対に負けないよ」

「ああ。俺だって、負けねえよ」

 もう一度、武内と友達になれた、そんな気がした。
 チョコを手に持つ彼女の顔を思いだした。

 ――明日は、彼女に、本当の気持ち、伝えられるかな。