風邪をひいた日から、丸二日が経った。
 体調はすっかり回復し、学校祭の準備のため校内を走り回る日々が始まったのも束の間、今日は放課後に行う予定だったクラス会議を欠席した。
 そして今、私は翔の部屋にいる。なぜなら。
「な、なんで来た……、けほ、けほっ」
 今度は翔が風邪をひいてしまったからである。
「うつるぞ」
 免疫出来たから大丈夫、と返してベッドの隣に正座した。
「そーかよ」
 翔は何故か布団を被ったまま。理由を尋ねても「うるせー」とこもった声しか返ってこない。
 ふーん、そういう態度とるんだ。せっかくお見舞いに来たのに。
 なんかムカつく。
「今日も準備とかあったんじゃねえのかよ」
 私はだんまりを決め込む。
「おい、聞いてんのか」
 息を止めて無言を貫く。
「……え」
 異変に気づいたみたいだ。
「なあ、おい……、なあって」
 体が動かないよう全身に力を入れる。
「えっ、マジで? 帰っ……」
 布団が勢いよく剥がされ、必死な表情の翔が現れた。
「てねえじゃねえか」
 真っ赤な顔が脱力していく様子に思わず吹き出した。翔はそれにムッとし、またもや布団に潜り込む。
「ややこしいことすんなっ」
 やれやれと呆れながらも、なんだかんだ愛しく思えてしまうのだ。
 それは私たちが「幼なじみ」で、こんなバカげたやり取りや時間も楽しめる間柄だから。でも、今はそれだけじゃなくて。
「なんだよ……」
 布団をめくってやると、ばつが悪そうにそっぽを向く。じっと見つめても頑なに目を合わそうとしない。
 どうしたの? といつもより優しい声音で聞いてみる。
「……恥ずいんだよ」
 ようやく答えてくれた。けれど「恥ずかしい」の意味がよくわからず、え? と返す。
「この間さ、お前の看病した時、『治ったら覚悟しとけ』とか気取ったこと言ったじゃん、俺」
 科白が頭の中でリフレインする。あの時の翔、すごくカッコよかった。当の本人は両目を覆って「あー、恥ず」と呟いているけれど。
 同時に、その時抱き合っていたことも思い出してしまった。顔が熱くなり、バレるかもと焦ってまた更に熱くなる。
「それなのに結局こんなんなってるし」
 うつってしまったのだから仕方がない。私にも責任がある。
「なんだかんだうつんないんじゃねえかなー、って軽く考えてたのかも」
 さすがにそれは難しいよ、となだめたのはいいものの、うつった主な原因を浮かべると言葉に詰まってしまう。だって、の続きが出てこない。
「お前、顔赤くね? うわ、やらしー」
 指摘され、顔の熱が増す。きっと色も更に赤くなってるんだろう。ちょっとでも誤魔化したくて、翔だって赤いよ、と言い返した。
「俺は仕方ねえじゃん、熱あんだもん」
 「ま、お前も仕方ねえよな」と私の頭に手を伸ばし、ぽんぽんと優しく叩いた。
「結構恥ずいことされたもんな、何回も」
 何回されただろう。一、二……、三回はきっとされた。
「すげえ可愛かったな、お前の反応」
 ニヤついた翔の科白によって、あの光景があっさりと浮かんでしまう。
「おい、こっち向けって」
 悔しい。
 さっきまで布団に引きこもっていたくせに、と目を合わさずに言ってやった。
「なんか安心したんだよ」
 翔の方に振り返る。
「お前も俺と同じで、恥ずかしいとか思ってくれてるんだなって」
 そう言って笑った。
 その笑顔が可愛くて、カッコよくもあって、なんだかすごく好きだと思ってしまった。
「……なんか」
 私の目を見つめたままそう呟いた。
「お前がすげえ可愛く見える」
 またもや顔を熱くさせられてしまう。恥ずかしさも合わせて誤魔化すように、熱出てるからじゃない? と返した。
「熱は関係ねえよ」
 起き上がった翔に強く抱きしめられる。熱い体が密着する。胸と息が、苦しい。
「俺らもう、ただの幼なじみじゃねえもん」
 ゆっくりと背中に手を回し、抱きしめ返した。
「これまでよりもっと近いとこで、お前のこと見てられる」
 鼻をすり寄せてくる。髪に愛しい感触。耳に漏れる温かい息がこそばゆい。
「好きだよ」
 顔を離し、見つめ合う。私も、と応えようとしたその瞬間、ぐぅー、と鈍い音がした。
「……恥ずっ」
 どうやら翔のお腹の音だったらしい。
「なんだよ、腹減ってんだよっ」
 駄々をこねる子どものような口調が、ふざけているとわかっていても可愛かった。顔がニヤけてしまいそうになる。
「あれ何?」
 翔がふと何かに気づく。視線を追うとローテーブルに辿り着き、あっ、と呟いた。すっかり忘れてしまっていた。
 りんごをすったやつ、と説明しながら翔の前に持っていく。
「これ、お前が?」
 そうだよ、と頷いた。
「へえ……、さんきゅ」
 さっきあれだけ抱き合ったりしたのに、何故かその時より照れている翔。基準がよくわからない、と思いながらも私もだんだん照れくさくなってきた。
「食わせて」
 そう言って口を開ける仕草をする。
 そんな照れてる状態で大丈夫なのか。でも私も翔のことは言えない。さっきから全然りんごをすくえていない。
「緊張してんの? スプーン震えてっけど」
 くくく、と笑いながら指摘してきた。悔しい。
「ちょ、おま……、盛りすぎだろ」
 自分でもおかしくなってくるくらい、スプーンにはすったりんごの山が出来ている。そのままそれを翔の口に近づけてやった。
「あ、こぼれ……!」
 間一髪、スプーンから零れ落ちたりんごを口で受け止めた。
「っぶねえ、セーフ……」
 目を閉じて味わっているようだ。
「うん、美味い。あ、ちょっと垂れてきた」
 スプーンですくおうと口元に近づける。
「あ、待って」
 え? と首をかしげた。
「取って、口で」
 ……は!?
「あ、ヤバい、落ちる」
 く、口で、って……、それって、つまり……。
「早く」
 バカとか何言ってんのとか言えばいいのに。私も私だ。言われた通り、ほいほいとスプーンの代わりに近づけてしまっている。
 甘い香りが、脳と鼻を刺激する。
「……っ」
 翔の甘い肌に触れた瞬間、ちゅ、と音が出た。触れただけで拭えるわけもなく、反射的に少し吸った。
「ふはっ」
 耳元で笑い声が一瞬響く。口を離すと、額を押さえて笑いを堪えていた。
「くすぐってえ」
 翔が言ったんだよ? という科白を飲み込んだ。少しりんごのような頬になった翔が可愛すぎたから。もう少し見ていたくなったのだ。
「変態だな、俺」
 完食したあと、私が口づけた場所に触れながら言った。
「おかげですげえ美味く感じた!」
 熱が出てるとは思えない程の明るい声と笑顔に、呆れながらもキュンとしてしまう。私も負けず劣らず変態だ。
 翔がもぞもぞと動き、ベッドにスペースを作る。これはもしや。
「おいで」
 シーツをぽんぽんと叩いて私を呼ぶ。隣に腰かけるとすぐに抱きしめられる。
「……お前今日、ほんとに学校行ってきた?」
 「すげえいい匂いすんだけど」とすんすん嗅がれる。漏れる息が首に当たってこそばゆい。
「ごめんな、忙しいのに来てもらって。クラスの奴ら困ってねえ? 大丈夫?」
 私がいなくても作業は問題なく進む。みんなのことは信用しているし、みんなもこんな私を信じて頼ってくれている。だから今日はみんなの好意に甘えることにした。
「そういうお前だから、みんなここまでついてきたんだろうな」
 でもいつまでも甘えてばかりじゃダメだし、実行委員としてやらなければいけないことはちゃんと取り組んで、必ず成功させる。
「お前の優しくて責任感強いとこ、すげえ好き」
 ぎゅっと強く、それでいて優しい力で抱きしめられる。
「でも、正直妬ける」
 抱きしめ返そうとした腕が止まった。
「お前に思われてるクラスメイトに妬ける」
 胸がキュンとする。痛くて苦しい幸せ。
「俺も同じクラスがよかったなー……」
 来年は一緒になろうね、となだめると、「んー」とはっきりとしない返事が来た。
「でも今は俺だけのモンだから」
 だからそれでいい、ということなのだろうか。不思議と納得してしまう。
 クラスが離れたって、私たちの距離が離れるわけじゃない。いつだって会える場所にいる。
 何より、心の距離がこれまでとは段違いだ。
「手、つないでい?」
 再び横になったあと、私に尋ねる。頷くと、そっとつながれた。
「冷たくて気持ちいー……」
 優しく笑い、目を閉じる。だんだんと呼吸が落ち着いてきたかな。
「治ったらすぐにデートしような」
 うん、と頷いてつないだ手に左手を重ねた。
「来月の映画も、買い物でもカフェでもどこでも。お前の行きたいとこ、喜ぶとこ全部行きたい」
 私の左手に、翔の右手が重なる。
「俺ら幼なじみとしては長いけど、恋人としては初心者じゃん。知らないことだらけだし、二人でどっか行ったこともねえし。だからお前のこと、もっと知りたい。それでいつか、二人のしたいこと行きたい場所が同じになればいいな……、って思ったわけであります」
 照れを自覚したのか、語尾が妙な敬語になってしまった翔。笑う私に「あー! もう寝るっ」と宣言し、布団に潜り込んだ。
 でも、この手はつないだままだ。
「夢でもお前に会えますよーにっ」
 ……なに、その可愛いお願い。しかもそれ以上は何も言わずに本当に眠ってしまった。
 ズルい。
 この間のお返しのような、仕返しのようなつもりで、ほっぺたに優しくキスをした。

〈完〉