ケータイ小説 野いちご

遠い思い出

 僕が理佐を意識するようになったのは、高校二年生の時だ。一年生の時はクラスが別だった上に、一学年に三百人強もいるこの学校で接点が無い人の顔と名前を一致させるには相当な秀才か美形であるか、あるいは余程目立つことをしてもらわないと困難だった。理佐はあまり目立たないグループに属していて、注意深く観察しないと気が付かない魅力を持っている人だった。だから、少なくとも僕の周りの友達は誰一人理佐の存在を気にかけておらず、渡邉理佐は美人だとか、人気があるとかいうことを一切口にしたことはなかった。だからといって僕は自分から理佐のことを誰かに話すことはなかった。大勢の人に気付かせることで理佐が持つ淡い魅力が損なわれてしまうかもしれないと、僕は心のどこかで思っていたのだろう。理佐と同じクラスなってから数か月は、全く話す機会が無かった。いや、話そうと思えば話すこともできたかもしれないが、僕は自分から気になる女子に躊躇なく話しかけることのできる性格ではなかった。
 
 話すきっかけは英語の授業で行われるペアワークだったと思う。隣が公欠で不在の理佐と、隣にそもそも席が無い僕とが必然的にペアになった。僕らは最初こそきちんと教科書の英文を読み合っていたが、いつからか、どちらからともなくふざけるようになった。教科書のつまらない英文を大袈裟な身振り手振りを加えて流暢に読んでみたり、あるいは日本人にしか通用しないようなカタカナ英語で読んでみたり、それにも飽きると家族や部活の話といった他愛もない会話をした。そうして僕らは自然に打ち解け合っていった。
 
 僕は以前に一度だけ彼女を認識したことがあったことを思い出した。それは僕らが一年生の時の卒業式でのことだ。
 無駄に長い校長の話にも飽きてふと周りを見回すと、他のクラスの女子が泣いているのが視界に映った。僕は自分の卒業式でもないのに珍しい人がいるもんだと驚き、半ば呆然とその女子を眺めていた。その泣いていた女子が理佐だったのだ。話すようになってから、理佐にはとても慕っていたバレー部の先輩がいたことを教えてくれた。入部を決めたのもその先輩に憧れてのことだったらしい。いざ先輩の卒業の日になって、急にいつもそばにいた人がいなくなってしまう不安を感じたと、理佐は言った。けれど僕にとってそれは普通に生活していれば当然訪れるであろう取るに足らない事くらいにしか思えなかった。小学生から中学生になる時も、中学生から高校生になる時も、それまでの友達とは決別し、新しい場所で新しい人間関係を構築していくものだと。だからこそ理佐の言葉を聞いた時、彼女は僕が想像しているよりも遥かに優しい、温かい心を持った人なのだと知った。それと同時に、理佐に対する想いもだんだんと強くなっていった。
 
 三年生になると席が離れ、教室で話す機会は減ったがそれ以外の場所ではできる限り一緒にいた。ある時友達とも言えないような知り合いに、渡邉理佐と付き合っているのかと聞かれたことがあったが、僕は全力で否定した。そういうふうに見られていたことにほんの少し嬉しさもあったが、実際付き合っているという事実は無いし、なにより理佐の迷惑になるようなことだけは絶対に避けたかった。十八歳とはいえ高校生なわけだから、そういう話題にはみんな敏感だったのだ。
 
 夕焼けの綺麗な日、駐輪場で運良く理佐と遭遇した。理佐は僕を見るなり「今日ね、友達に君と付き合ってるか聞かれたよ」と笑いながら言った。
 「え」
 僕はどんな表情でなんと答えればいいか分からなかった。自分も以前誰かに同じようなことを言われたとは、なぜだか言う気にはならなかった。
 「付き合ってないよって言ったけどね」
 「そっか」
 自転車のサドルに腰掛けながら理佐の方を見ると、心なしか顔が赤くなっているように見えた。たぶん夕焼けのせいだろう。僕らは自転車を押しながら駐輪場をあとにした。家へ帰る道すがら、他愛もない会話で盛り上がり僕はこんな時間が永遠に続けばいいのにと、遥か遠くで沈みかける夕陽を眺めがら思った。
 
 その日は朝から体が重く、なにか良くないことが起こる予感があった。当たり前に続いていた日常が失われる予感。体に纏わりつくような湿気が不快な、どんよりと曇った日のことだったと思う。昼休みが終わり、自分の席に戻ると「放課後、屋上にきて 理佐」と書かれた紙が机の上に置いてあった。予感が当たらないことを願いつつ僕はその紙を制服のポケットにしまった。落ち着かない気持ちを必死に抑えながら放課後までやり過ごし、理佐が教室を出た少し後に僕も屋上へ向かった。
 「東京に行くんだ」
 屋上で、スカートの裾をぎゅっと握りしめながら、申し訳なさそうな表情の彼女から発せられたその言葉に僕は一瞬固まり、次の瞬間鈍器で頭を思い切り殴られたような感覚に陥った。そして理佐から視線を逸らすように東京の方角を睨み、「東京」と頭の中で幾度となく反芻した。
 「モデルにならないかって言われて」
 沈黙を恐れたのか僕が口を開く前に理佐は東京へ行く理由を告げた。僕はその理由にあまり驚きは無かった。理佐は他の女子よりも頭一つ分は背が高くスタイルがいい。でも、だからって__。
 「そっか」
 僕はやっとの思いで肩の力を抜き、極めて平静を装って答えた。
 「うん、君には早めに言っておこうと思って......」
 誰よりも先に知らせてくれたことにほんの少し嬉しさを感じかけたが、あと数か月もしないうちに理佐がここからいなくなってしまうという信じがたい現実を突きつけられた上では、やはり僕の心は嬉しいという感情を純粋に、正面から感じることはできなかった。
 「あと少しの間だけど、今まで通りよろしくね」
 理佐の無理に繕った少し歪な微笑みが、なおさら僕の心を震わせた。
 「うん、こちらこそ」
 僕もできる限りの笑顔と、普段と変わらない口調で答えた。理佐がモデルになるために東京へ行くことは、いわば彼女にとって栄転であるはずなのにそれを素直に喜べない自分がいることに僕は気付き、自己嫌悪に陥った。
 
 理佐が東京へ発つ前に僕の想いを伝える。そう心には決めながらも、変わり映えのしない日々を送っていた。理佐との会話は少しぎこちなくなっていたけど、できる限り気丈に振舞った。けれど心は日に日に陰鬱としていった。理佐がこれから生活するであろう都会のビル群を夢想し、その下を群れるように歩く大勢の人々の中に彼女を重ね、そこへ連れ去る知らない誰かを憎んだ。
 
 夏休みに入る一か月程前、ホームルームにて理佐の転校が公に伝えられた。転校の理由は親の仕事の関係ということになっていた。女子たちはこぞって理佐との別れを惜しみ、夏休みまでの間は毎日彼女を囲んで弁当を食べるなど常に人だかりができていた。男子たちのなかには、よく見たら渡邉って綺麗だよな、などと言う人が増え密かに理佐のファンが生まれていた。僕はただただ、理佐の東京行きが白紙に戻ることを願っていた。
 
 八月半ば、僕の願いも空しく予定通り理佐は東京へ発った。朝、駅の改札で僕らは、「今までありがとう」とか、「がんばってね」とか、当たり障りのない言葉を一言二言交わして別れた。人ごみに紛れ駅のホームへ向かう理佐の背中を、もう二度と会うことはないんだろうな、という確信めいた予感を感じながら見送った。理佐は今どんな顔をしてなにを思っているのだろう、なぜ僕らは一緒にいることができないのだろう。
 
 夏休みが明けてから、僕の心がどれだけ理佐で占められていたかをいやというほど実感した。毎日学校で視界の隅に捉えていた理佐の姿が無いことに、僕はひどく心を打ちのめされ、学校へは日に日に足が遠のいていった。いつもそばにいた人がいなくなってしまう不安。ようやくその言葉の意味を僕は理解することができた。だけどもうすでに、僕の見る世界や心は、すっかりがらんどうになってしまっていた。
 
 精神が回復するのに、ある程度の時間を要した。卒業に最低必要な出席日数ギリギリのところで学校に復帰し、周りとの遅れを取り戻すため少しずつ勉強を始め、お世辞にも良いとはいえない東京の私大に滑り込んだ。地元にいると無意識のうちに理佐のことを思い出してしまうから、どこか知らない場所に行きたかったのだ。そこで新しい人間関係を構築し、過去を顧みたり届かないと分かっているものに無闇に手を伸ばすのをやめようと心に誓った。
 
 大学を卒業する頃には理佐はすっかり有名人になっていた。大手出版社のファッション誌専属モデルになり、雑誌の表紙を飾ることやテレビ番組への出演が増えているようだった。僕にとってそれは嬉しくもあり誇らしいことでもあった。だからといって会いたいとか、連絡を取りたいとかいう気は起こらなかった。あの日、駅の改札でなぜ僕は本心を言わなかったのだろうかと考えたことがある。本当は行ってほしくない、今までずっと好きだったと。言えたら少しは楽になれたはずなのに。たぶん、それは理佐を苦しめることになると、心のどこかで気付いていたのだろう。
 
 今はもう遠いあの日々、僕は焦げ茶色の髪をした、少し背の高い女の子に恋をしていた。普段は大人っぽいのに、笑うと僕までつられて笑ってしまうくらいのあどけない表情。通いなれた教室で、夕暮れ時の駐輪場で、放課後の屋上で、僕らはかけがえのない特別な時間を共にした。そういうことが確かな思い出として残っているだけで十分なのだと、僕は思う。

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