朝を過ぎたばかりの街に、空を見上げた人々の悲鳴がこだまする。悲鳴は次の悲鳴を呼び、パニックが次々に伝播していく。

 空を覆う、巨大な黒い雲の塊。
 その周辺にある街は、バケツの水をひっくり返したような土砂降りと、竜巻のように風の渦巻く大嵐になっていた。

「やめろおお! こっちくるなあ!」
「隣町、もうやられたぞ!」
「ここにもじきに黒入道が来る! みんな戸締りして中に入れ!」

 重い籠を下げた主婦たちが、転びそうになりながら自分の家や、近くの家に飛びこむ。酒飲み場の店主はドアを開けて、外にいる人を中へと避難させる。

「ひいいっ、市場が! まだ、まだおれの魚が――」
「ばか言え! あんたも中入りな! 命まで取られちまうって!」
「だって! ――チッ、くそぉ、死にたくねえよっ」

 売り物の魚や貝などを出しっぱなしのまま、魚屋も半泣きで屋内に逃げ込む。一瞬の差でそこは巨大雲に呑み込まれ、市場のテントを売り物ごとすべて吹き飛ばしていく。レンガ造りの家でさえ強風に揺れ、住民は皆、ぎゅっと目をつむって嵐が去るのを耐え忍ぶ。

 黒入道と呼ばれるその巨大な雨雲は、嵐を呼び起こす巨体で街をさんざんに荒らしながら、動いていく――

 その先には、王城。白亜の壁は汚れなく輝きを放ち、三角形をしたいくつもの屋根の先にある旗は、ぱたぱたと穏やかな風にたなびいている。

 巨大雲――黒入道は立ち止まり、吹きすさぶ強風の雄たけびを上げて、城に向かって力んだ。
 すると風はうねりをあげて木々をなぎ倒し、降りしきる雨は川をあふれさせ、店の看板や市場のテントは土石流に飲み込まれていく。

「ああ、王様、お妃様――……どうか」
「やめてくれえ……」

 この家でも、家族全員がじっと息をひそめてテーブルの下に固まっていた。

「ここで止まったのね……この街で……」
「く……影が来やがった……!」

 父親が窓の外を指さし、声を上げる。
 薄暗い闇に包まれた街の角から、暴れまわる馬小屋の中から、どこからともなくわらわらと黒い影が現れていた。人間とほぼ同じサイズのそれはまるで人そのもののように二本足で自由に歩きまわる。影らしく、風も波も、まったく影響を受けていない。

「パパぁ……」
「大丈夫だ。……静かに」

 ガタンガタン!
 突如、室内に激しい音が響く。ドアが蹴破られようとする。

「きゃあああ」
「こわいよ! パパぁ」

 一瞬静まると、今度は窓に回り込んだ影が、転がってきた鉄の棒を見つけてきて振りかざすのが見えた。

「こら! やめろ! 頼むから、割るんじゃないっ……!」

 子どもと妻を守ろうと、父親がテーブルの前に立ちはだかる。窓の外、影の、のっぺりとした頭のような部分に表情はないはずなのに、どこか嬉しそうに笑ったような気がした。

 家族が覚悟を決めたその瞬間、視界がぱっと明るくなった。

 影は真っ二つに切り裂かれて消え去り、影が握っていた鉄の棒だけが音を立てて転げ落ちる。

「え……っ」
 放心したように尻もちをつく父親。

 トンっ。
 軽やかな音が天井に一回。

「ああっ! 来てくれたんだ!」
「プリンセスナイトだ!」
 子どもはぱあっと目を輝かせた。

 それは間違いなく、プリンセスナイトがここにきて影をやっつけて、次の人を助けにいくためにこの家の屋根の上を伝って駆けていく音だとわかったのだ。

 子どもたちは我先にと窓へと駆け寄り、あわてた母親に止められる。それでも振り切って、窓にへばりつく。

 窓の外、雲は切り裂かれ、その隙間からは暖かな日が漏れていた。視線を飛ばすと、もうはるか遠く、星の粒ほどの大きさで、二つに結えられた金の髪をなびかせ、屋根から屋根へと飛び移る純白ドレスのプリンセスナイトの姿を見ることができた。

「ありがとう! プリンセスナイト!」
「ありがとぉー!」

 その後ろ姿に、子どもたちが一心不乱に手を振っていると、コンコンコンコンと、ドアがノックされた。

「大丈夫ですか? こちらの家が影に狙われているという報告を近所の住民から受けましたが!」

 隠し覗き穴から覗くと、国軍の兵士だった。王に授けられた影を切ることのできる剣を携えている。

「ええもう大丈夫です」
 父親はドアを開けて、安堵しながら手短に答えた。

 すると、
「プリンセスナイトがやっつけてくれたの!」
「パッて! パッてやっつけたの!」

「そうでしたか……プリンセスナイトが、また……」

 父親の脇から子どもたちが顔を出し、無邪気にはしゃぐ。兵士は少し戸惑うように頷き返した。

「黒影撃退にはまだかかります。今後もお気を付け下さい」
「わかりました。そちらも、どうぞ気を付けて」

 子どもたちが外へ飛び出ないよう両手で覆うように抱える母親に案じられ、兵士は甲冑を揺らして敬礼。そして、危険な目にあっている次の家を見つけに走っていく。

 街には今やそんな兵士たちと、プリンセスナイトの行方を追う住民であふれていた。


 ぴょーん、ぴょーん。

 長い金のツインテールが、流星のように跳躍の軌跡を描く。一羽の白い鳩を連れながら、屋根から屋根へ。住民へ危害を加えようとする影を見つけては、すぐさま降り立ち、手に持った金色のステッキを一振り。ステッキの先に広がる幾枚の羽の翼に、影は浄化されるようにして、悲鳴を残して消え去る。

 幾重にも生地の重なった純白ドレスをふわっと蕾のようにふくれさせて、プリンセスナイトはまた屋根に飛び乗り、伝い伝って街で王城を除き一番高い位置にある、役場の時計台の上に大きく飛んだ。

「よっと!」
 足場はせまいが――

「お気を付け下さい。はな様」
「だいじょーぶトト! まっかせて☆ プリンセスナイトは無敵だもーん!」

 すたっと着地。
 頭の上の銀のティアラでキランと日光を反射させて、差し出した腕にうやうやしくとまる鳩――トトに、にっこり返事をする。

 瞳の中の星が瞬く。
 へっちゃらだ。
 なぜなら、プリンセスナイトだからである。

「軍の人も、だいぶ増えてきたね!」
「そろそろ軍に任せますか」
「ん~、そうだねえ……」

 トトの提案に、プリンセスナイトは少しためらう。

 嵐を呼ぶ巨大雲、黒入道。それは、プリンセスナイトの力によってならば消滅させることが可能だった。ただしその代償として出るのが、黒影と呼ばれる黒い影。黒影は、まるで人そのものであるように、街を荒らしていくことで、人々を困らせていた。対抗手段は、プリンセスナイトの羽ステッキか、王族から授けられし剣による一撃。

 周囲を見回していたプリンセスナイトの瞳に、五~六人もの影が一か所に集まっているのが見えた。なんと、その中心には小柄な少年剣士一人だ。

「あっ。あそこは助けに行こう!」
「了解です!」

 プリンセスナイトは普通の人なら立ちくらみするほど高い時計台から、軽やかにジャンプした。

「へ、へーん、かかってきやがれっての! 黒影!」

 少年剣士は四方八方を黒い影に取り囲まれていた。影一体一体は、拾った鉄の棒や斧を手に、単純な動きで襲い掛かってくるだけだが、こうも数がいると倒すのは至難の業になってくる。

「がんばれ!」
「がんばれ!!」
 住民が窓から顔を出して、彼を応援している。

「余裕だっての!」

 唇をなめて軽口をたたく少年に振り上げられる影の斧。少年は上体をわずかに逸らしひょいと避ける。続いて正面から向かってきていた次の影が、腰下から鉄の棒を振り上げようとする。彼はそれより早く剣を回して、一刺し。斧に振られた体勢を戻しかけた影の腹にも、時差で余裕の一突き。

 少年は決して力で対抗することなく、一撃一撃を無駄なく正確に受け流し、必要最小限の返しで対抗する。勇敢な大きな瞳、やんちゃに立てた髪、愉快げにゆがめられたくちばし――そんな若い少年らしからぬ、繊細な剣運びだ。

 街を襲う恐ろしい黒影が、端役のごとくバッタバッタとなぎ倒されていく。
 彼のその流麗な捌きは、まるで美しい舞踏のようで、住民はひと時恐怖を忘れて魅入っていた。

 そこへ、

「えーいっ♪」

 光とともに、たくさんの白い羽が舞った。

「プリンセスナイトだ!」

 住民から一番の歓声が上がる。視線の先には金色のステッキを携えたプリンセスナイト。彼女は急いで駆け付けた焦りも見せず、周囲を安心させるようににっこりとほほ笑んだ。



「僕らのところにも来てくれた!」
「ありがとう! 助かったよ」

 大旗のように振られるステッキの先の無数の翼が、次々に影を浄化していく。

「あ、あ、あーっ!」

 影に取り囲まれていた渦中の少年剣士だけが、――叫んだ。おやつを取り上げられた子どものように。

「なにしてくれんだ! プリンセスナイト!!」
「えっ、え」

 激昂する彼に、プリンセスナイトも戸惑う。

「お れ の え も の、 お れ の 見 せ 場」
「え、――獲物って! 見せ場!? 住民と君の安全確保が先でしょ!?」
「住民の安全も確保するし、俺も負けねえし!!」

 二人の言い争いを、住民はあっけにとられたように見ていた。プリンセスナイトははっと我に返り、

「と、とにかく、ここはもう私がやったから!」

 ステッキの羽を逆手に持ち替えると、その上に軽々とまたがった。

「あ、あとはよろしくねーっ!」

 たんっ、と地を一蹴り。ステッキの羽が鳥のように羽ばたき、一瞬にして上空に舞い上がる。

「あーーもう、余~計~な、こ~と~を~~!」

 少年の吠える声や、街の喧噪が徐々に小さくなっていく。ここは静穏の空。足元すぐ近くに、なにごともなかったかのように、薄い白雲がすうっと伸びている。

「あっぶなかったーっ。あんまり顔をじろじろ見られたら、ばれちゃうばれちゃう」

 プリンセスナイトはふわふわと、魔法の羽ステッキで空に浮きながら、ほっとため息をついて片腕を伸ばす。鳩のトトが一陣の風を巻き起こしながら、軽く礼をしてプリンセスナイトのその腕にとまる。

「ええ。特にあの少年剣士――ソラトは、はな様の幼なじみではありませんか」
「そーだねえ。だめだめ! 気を許しちゃ」

 上空から見下ろすと、街は模型のおもちゃのように小さく見えた。でもその一つ一つ、すべてが、人が作ったものだと知っている。

「街が……」

 それが、黒入道の歩いた足跡のように、ところどころ壊されてしまった。どれもこれも、途方もない一瞬の出来事だった。

「できることを、一つずつやっていくよりほかありません」

 明日にも、人は活動を再開するだろう。
 プリンセスナイトはそっとトトをほおに寄せると、頷いた。

「そうね」

 再び舞い上がったトトと共に風を切るように進み、目的地に一気に飛びこむ。

 王城。
 最上階からやや二~三階下、南西に向くバルコニーに降り立った。今はだれも使うことのない、埃っぽく暗い通路に続く。

 変身を解いたプリンセスナイトの手には羽ステッキの代わりに一本の、小さな羽箒が握られていた。その羽箒で、目の前の壁にかかったほこりをちょいと一払いする。埃をかぶっていた鏡が、彼女の姿を映しだした。

 影の攻撃から身を守るための特殊な効力を宿す、貴族の傘のようなシルエットの豪奢な純白ドレスだったものは、フリルエプロンと紺色ワンピースに変わり、頭の上の銀のティアラは、白いエプロンとセットのヘッドドレスに。誰もが憧れる長い長いツインテールの、高速で移動するたびに伸びては縮む、らせん階段のような毛先のカールは、今は、耳下で二つに縛っている根元を隠すように、しゅるっとひとふさ巻きつけられているだけの、ただの地味な直線の二つ結びになっていた。その姿は、城で働くメイドそのもの。

 国を守るプリンセスナイトから、どこにでもいる一人のメイドへと変わり果てた少女は、自分に言い聞かせるように、つぶやいた。

「私は、プリンセスナイトよ」

 たとえ、どんな姿であろうとも。

 感傷めいたものが胸の内をかすめたが、頭を振って振り払う。

「仕事に戻ろうっ」

 声にも出して、元気に喝を入れる。

「またね、トト」

 トトのとまっている腕を伸ばすと、トトは指先へと伝った。少女は目の高さに持ち上げて、視線を合わせる。

「では、また有事の際にはお呼びに参ります。クルックー」
「うん。バイバイ」

 バルコニーの窓を開け、トトをそっと放す。トトは高く遠く飛んですぐに真っ白い小さな点となり、城の頂上へと消えていった。少女は、視界に収まりきらないくらいの城の先、遥か高くを見上げて、かすかにため息をついた。上にはこの国の王様やお妃様、お姫様が住んでいる。

「わたしが、守らなきゃ」

 わたしは、プリンセスナイトなんだから。