午前中、まだ人の少ない店内に一人の客が現れた。
「いらっしゃい」
 暖簾をくぐったのは、私と同じくらいか少し歳上の背の高い男だった。黒髪から覗く美しい瞳に、透き通るような白肌。世に言う「男前」というやつだ。
 彼は奥の席に座った。
私は注文を取りにその客の元へ向かう。
「ご注文は?」
私が尋ねると、彼はにこやかに言った。
「酒が飲みたい」
朝から飲むのか、とそんなことを思いながら言われた通り酒を持ってきた。
「どうぞ」
酒を机に置くと、彼は微笑んで礼を言った。
厨房に戻ろうと踵を返した時、背中に声が掛かった。
「お前、名前は?」
突然のことに少々驚きながら、私は答える。
「神代です」
「下の名前は」
「──凛月です」
「そうか」
それだけ聞くと彼は酒を飲み始めた。
──なんだったんだ?
と、そんなことを心の中で呟きながら私は厨房へ戻った。
 厨房に戻ると、千夜香さんが声をかけてきた。
「彼、男前だね」
私は皿を洗いながら答える。
「ですね」
彼を見ながら、千夜香さんは言う。
「彼女とかいるのかなあ」
「さぁ。千夜香さんならいけると思いますよ、可愛いし」
そう言って私は隣の千夜香さんを見た。彼女は町でも評判の美人で、彼女目当てで店に来る客も少なくない。
「そう?ありがとう。でも、私は恋人は作らないから」
そう言って彼女ははにかんだ。
「へえ、どうしてですか?」
「今はいいのよ、そういうのは」
彼女は穏やかに言った。
「へえ、そうなんですか」
モテる人もいろいろあるんだな、と思った。

 奥の席では彼が、どこか遠くを見ながら1人酒を飲んでいた。

 今日も慌ただしく1日は終わり、私は店の2階にある自分の部屋へと向かった。
布団に入り目を瞑った時、頭に浮かぶのは今日店にやってきた彼だった。

 翌朝、店の扉が開く。
「あ…昨日の」
思わず私は声をかけた。
「そ、昨日の。」
そう言って彼は微笑んだ。
それから昨日と同じように奥の席に座り、酒を頼んだ。
「また来たんだね」
厨房では千夜香さんが彼を見ていた。
「そうみたいですね」
私は酒をお盆に置きながら答えた。
 彼女を背に、私は厨房をあとにした。
奥の席へ足を運び、その机にコト、と酒を置いた。
「どうも」
そう言って盃を片手に座った彼は私を見上げた。
「よく冷えるな」
「ですね」
私はそう言うと踵を返そうとした。
「凛月」
と、後ろから声が掛かる。
彼は私の名前を呼ぶと、手招きした。
「そこ、座って」
そう言って彼の前の席を指さした。
突然のことに少し驚いたが、店に彼以外客はいなかったし、店の準備も終わっていたので私は彼に付き合うことにした。
「あ、はい」
そして私は彼の前の椅子に腰掛けた。
「凛月ってー」
「はい?」
「恋人とかいんのか?」
「ここどっか違う場所と勘違いしてません?」
私はすかさず言った。
「いやぁ別に、勘違いとかしてねーよ」
彼はゆっくりとした口調で言った。
「酔ってますね」
「え、バレた?」
私が言うと彼は楽しそうに笑った。
「名前、なんて言うんですか」
私は華麗にスルーして話題を変える。
「あ、俺?かぐや」
「──かぐや?」
家具屋、神弥、かぐや…?
珍しい名前だ。
「輝く夜、で輝夜」
──『輝く夜』。
綺麗だと、思った。
「綺麗ですね」
「え?」
気づけば口に出していた。
「名前」
「ああ、ありがとう」
彼はそう言って微笑んだ。
「あの奥にいる美人なお姉さんはなんて名前?」
彼が指さしたのは厨房にいた千夜香さん。
少し間を開けて、それに気づいた彼女は顔を上げた。
「──私?」
「そ」
「私は、一ノ瀬 千夜香」
「へえ、千夜香さん」
彼はまたもや満足そうに笑顔を浮かべた。
「美人だな」
「ふふ、褒め上手ね」
千夜香さんは顔色ひとつ変えず笑顔で言った。きっと、私よりもずっと男の人に慣れているんだろう。
「本当のことを言ったまでだ」
わたしは二人のやり取りを眺めていた。
 二人とも大人で、生まれてから一度も恋愛に縁がなかった私とは程遠い。
美人な千夜香さんと、容姿端麗な彼。お似合いだなぁ、とつくづく思う。
「あ、凛月」
と、そんなことを考えていると彼が私を呼んだ。
「はい?」
「俺の事、輝夜でいーから。あと敬語もいらねえ」
突然そう言われても、と思うが私は頷いた。
「あ、うん分かった」
「それじゃ俺忙しいから行くわ」
忙しそうには見えねーよ、と心の中で呟く。
 彼が店の扉を開けると、店の中に外の冷気が流れ込んだ。
「ううっ、寒っ」
私は思わず声を上げる。
「寒いな」
輝夜も呟いた。
「じゃ、また来るわ」
そう言うと彼はひらひらと手を振り、店をあとにした。