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『掌編小説集』

第八章

8 .『仔猫』
 単独でツーリングに出かけて道に迷った挙句、運悪く日没に出っ会(でっく)わしたりすると、異界にでも迷い込んだ想いをするものだ。親父といわれる歳にさし掛かった独身の都筑肇は、久方ぶりに3日間の休暇を取得した。さして座り心地のよくない、管理職の椅子にもなんとか馴染み、冗談をいうまでになった肇だが、妻帯者ばかりの同僚や部下に、なんとなく自分とは異質なものを感じ、気後れがしてしまうのだった。
 肇の住まいは、軒先からガーゴイルの睥睨する、苔むし古色蒼然たる洋館だった。不動産会社の担当氏によると、山中に在った洋館の周りは徐々に開発が進んで高級住宅が立ち並び、一大ベッドタウンに変貌してしまったのだという。曰くつきの物件らしく、他の住宅が遠巻きにする中、鬱蒼と茂る樹木が建物を覆い隠し、洋館の存在を外部から隠していた。誰もが敬遠していたのを、これ幸いと肇が格安で買い取ったのだった。気味が悪いといってしまえば、それまでのことだが、肇のような変わり者にとっては、精神を鍛錬するにはもってこいの住まいだった。
 この際、会社の煩わしい諸事万般を脳裏から追い出し、独りツーリングに出かけるのが一番の気晴らしになるだろう。そう思い立ったら、高校生の頃の血が騒ぎ出し、肇は休暇初日に早々と起床、愛車のD u c a t i (ドゥカティ)を調整し始めた。田舎住まいの両親に余計な心配をかけまいと思いながら、肇はモーターバイクでのツーリングを止められなかった。事故に遭遇したら、普通車の何層倍も単車の方が危険なのは承知していたが、こればかりは譲れなかった。
 長身にして容姿端正な肇なら、異性の一人や二人はいそうなものだが、周囲からは浮いた話は聴こえてこない。なんでも、数年前、交際(つきあ)っていた時岡柚子(ときおか・ゆず)と二人でロック・クライミングに出かけて事故に遭い、柚子を失った痛手からまだ回復していないのだという。
 大学を卒業し、会社勤めを始めて間もない土曜日、街中にあるスポーツ施設に出かけた肇は、壁を素手で攀じ登っていく細身の若い女の強靭な体力に瞠目した。それが柚子との最初の出遭いだった。高処恐怖症の肇には、視ているだけで目眩を起こしてしまいそうな光景だった。
 肇は、「インストラクターでもなさそうだが… … 」と思いながら視いる。なんの苦もなくするすると降りてくる姿を、呆然と眺めている肇に気づいた柚子は、つかつかと近寄っていって艶然たる笑みを浮かべ、「あなたも試してみたら? 」と甲高い声で話しかけてきた。
 「高処恐怖症ってやつでして、1 メートルでも高いところは苦手なんですよ」と応える肇。
 それで「あっそう… … 」と引き下がる柚子ではなかった。お互いに魅きつける何かが、あったということだろうか―― 。
 それからの数週間、柚子の指導よろしくロック・クライミングを始めた肇は、高処恐怖症を克服できそうな予感に、子供の頃に還ったようにその虜になってしまった。
 北に向かって跳ばすことおよそ3時間、二人で登攀に挑戦した険阻な岩山が、ドゥカティに乗る肇の視界に入ってきた。事故に遭遇して以来、訪れるのが最初なだけに、全身に戦慄が走る想いだった。岩山の麓に辿り着き、ドゥカティを停めて周囲の叢(くさむら)に一瞥をくれた。揺れ動く叢から黒に近い灰色がかった一匹の仔猫が現れ、肇を視ると近寄ってきてか細い声で鳴いた。
 仔猫は異様な感じの両眼を除き、美形といってもよい優美な姿をしていた。岩山を視上げ、叢から出てきた仔猫を視下ろし、そーっと両手を差し伸べた。仔猫は擦り寄ってきて肇を視上げ、ふたたびか細い声で鳴いた。仔猫の右目はゴールド、左目はプラチナの輝きを発していた。肇は仔猫を抱き上げると、おそるおそるブルゾンの内ポケットに入れ、ドゥカティを発進させた。
 ツーリングしながらぼんやり考え事をしている中に、肇は何処を走っているのかまったく分からくなってしまった。モータバイクを路側帯に停め、地図で該当箇所を照合してみたが、それらしい建物や標識はおろか地形の一箇所も一致しなかった。そればかりか、山道を走ってきたのだから、森林地帯なのは当然としても、生えているのはまったく知らない樹木ばかりだった。
 違った世界にでも迷い込んでしまったらしい。足下からヅグワッヅグワッと、恐怖感が這い登る感覚が襲ってきた。自分であって自分でない、絶叫したくなる違和感が身体全体に浸潤し、完全に自己喪失に陥ってしまった。
 地中から生えてきたか、苔むした廃墟と視紛うばかりの、オドロオドロしい建物の間を廃人同然の老若男女が十数人そぞろ歩いていた。一体ここは何処なのだろう― ― 肇は場末の映画館で、何時の時代とも知れない映画を観ているような感覚に囚われていた。痩せっこけた少年と少女が、薄暗い洞窟内を彷徨き、寛げそうな場処を探していた。大柄な猫に似た動物が一匹、二人を追いかけてきて、ねだるように少女の脚に鉤爪をかけ、どら猫のような鳴き声を上げた。
 頭上から柚子の「猫が… … 」と叫ぶ、驚きの声が肇の耳に届いた直後、柚子が肇の横をかすめて落下していった。柚子とツーリングに出かけ、途中で予定を変更して岩登りに挑んだのがいけなかった。
 いとも容易(たやす)く絶壁を征服、八合目あたりに差しかかった時だった。天辺に辿り着いたら、還りはワイアーロープを垂らして一気に降りよう― ― 肇がそう思った直後に事故が起こった。猫が岩場の、しかも絶壁に生息しているなど、いくら野生の猫だろうと考えられない。
 ケアルという、A . E . ヴァン・ヴォークトの『宇宙船ビーグル号の冒険』に登場する化け猫なら、あるいは絶壁など平気の平左だろうけど― ― 。そんなことでも考えていなければ、事故に遭った柚子の惨(むご)たらしい状態を、想像しただけでも身の毛がよだつのだった。地上に降り立った肇は、叢に横たわる柚子の無慙な姿を発見、全身打撲の瀕死の様に嗚咽を抑えきれなくなり、身体を震わせて慟哭した。
 結局、救急車の中で息を引き取った柚子は、肇の手を握りながら「猫が、 猫が… … 」とそればかり呟きながら、あの世に旅立った。
 日没間際の山中に暗闇が訪れ、気温が下がり始めるのは速かった。ブルゾンの中で仔猫がくしゃみをしたのが聴こえ、肇はやっと我に還って、辺りを不審そうに凝視した。気の所為か、一瞬だったが、大気に揺らぎが生じたように視えたのだ。肇は標識らしい、緑青の浮いた銅板を打ちつけた杭があるのに気づいてそれに視入った。その標識からは、次のような表示がなんとか読み取れた― ― 「過疎郡奇っ怪が邑(むら)大字崖っ淵」。なにかの冗談だろうか― ― そう思いながら、肇はドゥカティに跨がり帰路を急いだ。
 途中で個人商店に立ち寄り、夕食用の食糧と一緒に、仔猫の好みそうなキャット・フードを調達した。住まいの横にドゥカティを停め、ドアを開けて中に入り、玄関のライトを點けようとスイッチに手を伸ばしかけ、眼前に人の気配を感じてぎくっとした。仔猫がブルゾンの中で低く唸ったのが聴こえ、それと同時に気配は消失した。
 仔猫にミルクとキャット・フードを与え、肇は買ってきたばかりのフランスパンにかぶりつき、辛口ビールで流し込んだ。喫煙して寛いでいる最中、玄関で視た幻は柚子だったのではなかったかと気づいた。と同時に全身に戦慄が走り、思わず起ち上がると北の方角に向かって合掌し、小声で呟いた― ― 「柚子よ、迷わず成仏してくれ。この仔猫は君の替りと思い大事に育てるから、心配しないで」。[完]

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