玉座へと向かって行く及川には、いくら歩いてもその玉座に近づいているようには想えなかった。このまま、死ぬまで歩き続けることになるか、死ぬ覚悟があるなら成し遂げられないこともあるまい、などと考えながら玉座を目指した。先刻まで付き添っていた巫女は、いつの間にか何も言わずに姿を消していた。
 梟の化身でもあったろうか、それとも及川の幻覚が造り出した蜃気楼の類いだったのだろうか。そう想いつつ両脚を交互に動かす中に、わずかながらも玉座に近づいている感覚が生じてきた。その一瞬後、及川は教祖と顔衝き合わせることになり、驚愕のあまりに仰け反った。
 「よくおいでになった。儂が面会する相手は、この世にもあの世にもそう多くはおらん。気を楽にして儂の聞き手になられい。輩下の者どもが何やら馳走を用意いたそうから、楽しみに待っておったら宜しかろう」
 破れ鐘(われがね)のような声が玉座から発して天空を突き抜け、一周して屋内に耳障りな谺となって轟いた。話す度に、教祖の貌は声量に同期して巨大化したり矮小化したり、拝聴している及川は安酒を呑みすぎた時に味わう宿酔の気分だった。こいつは、トンデモナイことに関わってしまったかな。訳の分からない呪いにかかり、3次元映像を無理強いに観せられた上に、ヤクが切れて七転八倒するヤク中と大差ない。
 そうこうする中に、周囲が騒がしくなり、看護婦や医者の身形(みなり)をした大勢の人影が及川を取り囲んだ。及川はいつの間にか手術台の上に仰向(あおむ)けになり、白衣の面々が視下ろしているのをボンヤリと眺めていた。左腕にチクりと痛覚があったと想いながら遠のく意識の中で、なぜか己れの腹部から臓器がなくなって行くのを視おろしていた。
 遙か彼方に小さく視えていた教祖の貌が、なんの前触れもなく及川の面前に現れ、その巨大化した貌の半分を占める口から迸る破れ鐘のような声を轟かせた。
 「ま、そういった訳でだな、儂は株式投資に資産の1 / 3 を割り当てることに決意した。明日、早々に投資に必要な額を口座に振り込むので、手配してもらいたい。では、これにて儂の話はおわりだ。気いつけて帰るがよかろう」
 そういうと、及川の間近にあった容貌魁偉な教祖のデカい貌は、風船が萎(しぼ)むように急激に小さくなって消えた。
 半ば朦朧とした意識で教祖の邸宅を出た及川は、真っ暗な中を覚束ない足取りで歩き始めた。何本かの巨木の拗くれた枝が前方を塞ぎ、暗闇の中で危うく額をぶつけそうになって振り向くと、先刻の梟が眼を金色に輝かせて及川を視下ろし、ホーホっホーホっと啼いて視送る素振りを示したかに視えた。気いつけて帰りなさいとでも言ってるようなその仕種に、及川は想わず最敬礼をしてしまった。
 昼なお暗い山道を、大きな図体を少しでも小さく視せようと屈むように歩きながら、乗り捨てた車を探して彷徨(うろつ)く中に、薄気味悪い廃屋の前に出てしまった。近づいて行って確かめると、それは火葬場だった。
 ゾクッと寒気立ち、及川は慌てて火葬場を後にすると、坂道を転げるようにして帰路を急いだ。及川の恐怖は頂点に達しかけていた。背後から寒風が吹いてきて、首筋に凍った手の感触を覚え、倍加した恐怖に屈服して絶叫を上げてしまった。営業課長や同僚が傍にいなかったのは幸いだった―― 及川が如何に臆病な人間であるか、自身を除いて誰もいないのだから。そう想いながら曲がりくねった夜道を歩いている中に、乗り捨てたポンコツ車の前に出た。
 今の及川には、何処をどのように歩いて辿り着けたのか、いくら記憶を遡って行っても解けない謎だった。ショルダーバッグを助手席に放り込み、運転席の方に回り込んでドアを力任せに開け、エンジンをかけてアクセルを踏み込んだ。今回もやはり、クラッチを操作せずに走行し始めた。及川は、このポンコツ車は俺様をマスターと思い込んでいるに違いないと確信した。
 学生時代にアルバイトで貯めた貯金を株式投資で倍々増させ、その後も投資で想像つかないほどの利益を上げた及川は、大学に入学して数ヶ月後に新築したての洒落た一軒家を入手、気儘な独身暮らしを満喫した。卒業後も、そのまま住み続けて現在に到った。車を庭先に乗り入れ、玄関の錠を開けて中に入ると、早速シャワーを浴びて汗を洗い流した。寝室に入って暫し微睡(まどろ)み、目覚ましの助けなしに早々と起床して出社の準備をした。大変な一晩だったが、教祖から契約を取り付けたし、これで営業マンとして終わりだろうと何もいうことはない。
 早朝、及川が車を運転して出社したところ、課長を含めて営業課の全員が拍手をもって迎えたのには驚いた。営業成績最下位の自分を、拍手で迎えるとは一体どうなっているのだろう。
 課長が何時もになくへりくだった様子で近づいてきて、「部長、永の海外出張おつかれさまでした。さあさ、バッグをお持ちしましょう」と言った。
 鬼のような課長が自分を部長だとか、永の海外出張とは何のことだ。及川は訳も分からず、それでも部長室と表示のあるドアを開け、おそるおそる中に踏み込んで行った。
 巨大な姿視のある前に立った及川は、姿形はそのままにも拘わらず、何かしら他人を眺めているような気分に陥った。及川は鏡に貌を近づけ、両眼を瞠いて己れをよく観察すると深く息を吸い込んだ。及川自身の眼が金色の光を放っていたあの梟の眼にそっくりなら、貌つきはあのインチキ教祖の面構えになんとなく似ているではないか。一晩の恐怖体験が、己れを得体の知れない怪物に変えてしまったのだろうか。
 どうやら、山道を彷徨っている中に別の世界に嵌まり込んでしまったに違いない。それならそれで結構、以前の弱虫からタフガイに変わった訳だ。どのように生きるかは、これからじっくり考えることにするとして―― 取り敢えずは一服といこうか。[完]