そもそもなぜ睡眠相談室を利用するようになったかと言うと、友人からの紹介だった。

夢子には行きつけのバーがある。そこは音大生の時にバイトをしていた店で、店内でピアノ伴奏をしていた。卒業してフリーピアニストになってからも度々訪れている。

あの日も仕事終わりにちょっと一杯、と店に寄った。
カランカランとドアベルを鳴らして、古いが重厚で赴きのあるドアを押す。

「こんばんはー。いつものと、チーズとかある?」

夢子がカウンターのスツール椅子に勝手知ったると言う感じで腰かける。午後11時、客は夢子だけだ。カウンター内でグラスを拭いている男が片眉を上げる。

「なんや、また寝酒か?寝る前は程々にしとかな寝られんくなるで」
「分かってるよぉ。一杯だけ!今日も頑張った自分にご褒美だよ」

ぷくっと夢子は頬を膨らます。カウンターにいる男はここのマスターであるが、夢子がバイトしていた時のマスターではない。その息子である麻倉礼二(あさくら れいじ)だ。

バイト当時は、夜のバータイムをマスターが。昼のカフェタイムをマスターの奥さんが切り盛りしていた。
その時は礼二が調理専門学生だったので、夢子と同じくこの店でバイトをしていた。
ところが礼二の卒業後、
『引退するわ。あとは任せたで』
という前マスターの言葉を最後に夫婦は引退。現在は旅行、社交ダンス、陶芸教室などなど。二人で趣味に花を咲かせているらしい。

「今日はマスターと靖美(やすみ)さんいないの?」

「おらん。今朝から札幌に行ってる。明日札幌ドームでバンドのライブがあるらしいわ」

「へぇ~、いいなぁ。夫婦仲良くて素敵だよねえ」

「何がええねん。勝手に俺に店押し付けといてええ気なもんや。
て言うか、ネコ!今のマスターは俺やって言うてるやろ?親父は『前マスター』や!」

「はいはい、マスター様。何でもいいから早く私のジントニック作ってよ」

頬杖をついて半目で礼二を見上げる。同じく半目で返された。

「分かった分かった!いつもご利用ありがとうございます〜。超常連の水民様〜」

わざとらしく何やらぶつぶつ言いながらもグラスとチーズを取りにいった。

礼二とは昔からこんな調子で気を使わないので接してて非常に楽である。マスター夫妻も夢子の事を息子と同い年。且つ、地方から関西に出てきた女の子。と言うことで昔はもちろん、大学を卒業してバイトを辞めてから2年経った現在も随分可愛がって貰っている。
(ちなみに『ネコ』とはこの店での夢子のあだ名で、出勤初日に緊張のあまり早口で自己紹介をした夢子の名前を前マスターが『ネコ』と聞き間違えたため)

出てきたジントニックとチーズを口に運ぶ。味もチーズのチョイスも完璧だ。からかいもするが、やはり礼二はこのバーの正真正銘マスターだなと思う。本人は店を押し付けられた、などと言っているが、前マスターが信頼して店を任せた事を夢子は知っている。そしてそれを礼二が密かに嬉しく思っている事も。

「あぁ~。美味しい!やっぱここのジントニックじゃないとしっくりこないんだよねぇ」

「おだてても奢らへんからな。あと日付け変わる前には帰れよ。先週みたいに終電無くなってバイクに乗せんの嫌やで」

「今来たばっかなのに!あの時は土日ダイヤなの忘れてたんだもん」

「俺が仕事中に酒を一滴も飲まへん事に感謝せえよー。バイク運転出来へんかったら歩くハメになってたんやでー?ここからやったらキツイでー?」

「は、はい...。その節は大変お世話になりましたマスター様!!」

でも今日は時刻表確認したから大丈夫!と笑う夢子に礼二は切れ長の目をさらにスッと細くする。

「で?」

「で?って?」

突然の返しに夢子は首を傾げる。で?って何だ。で?って。

「今日はどんな嫌な事があったんや?」

ギクッと肩が跳ねる。なぜ仕事のモヤモヤを晴らしに来たことがバレているのか。

「ネコがここに来る理由は2つしかない。めっちゃええ事があったか、めっちゃ嫌な事があったか」

「良い事があった可能性は…?」

「ええ事があったら座った途端に話し出すやろ。だらだら世間話するとか話切り出すタイミングみてる証拠や」

グラスを磨きながら絵に描いたようなドヤ顔をする礼二に心底腹が立つが、当たっているのだから仕方ない。

「…別に嫌な事があった訳じゃないよ。ただ、最近眠れなくて…」

「またか。もしかして不眠症なんか?」

「いや、不眠症とかじゃないんだけど…。昔から寝つき悪くて。それでちょっと仕事もしんどいの。大した事はないんだけどね」

あはは、と軽く笑う夢子に対して礼二はわずかに眉間に皺を寄せる。すると、おもむろにグラスを置いてカウンター端にあるコースターを取ってペンで何かを書き始めた。

「それやったらここ紹介したるわ。寝られへん時に掛けてみ」

受け取ったコースターには『睡眠相談室』の文字と電話番号が書いてある。

「睡眠相談室?何これ?」

「寝られへん時にそこに電話したら寝れるようにアドバイスしてくれるらしいで」

「へぇ~!初めて知った!何か面白そう」

ありがとう、と言ってコースターをバックに入れる。その様子を礼二はちょっと驚いた表情で見た。

「ネコがお礼言うとか、明日は槍でも降りそうやな」

「失礼ね!ありがとうくらいいつも言ってるでしょ?」

やいのやいの言い合いながら、日付けが変わる前に店をでた。