王宮に帰還した夜は雨が降っていた。
 私は庭の赤薔薇が綺麗に咲いていたので、その花びらを浮かべたローズティーをトレイに載せ、シェイドのお母様がいる別邸に向かう。

 雨に濡れないように屋根付きの外廊下を歩いていると、目の前にローブの男が現れた。深く被ったフードを脱いだその人は月光を反射させる銀髪にサファイアの瞳をしている。

「え……クワルト!?」

「若菜お姉さん、会いに来ちゃった。アストリア王国ぶりだね」

 困ったように笑って軽く手を振ってくる彼に、私は慌てて周囲に人がないかを確認した。この国の町で疫病騒ぎを起こし、アストリア王国を陥れたレジスタンスの彼がこの王宮にいるのは非常にまずいのだ。

 私は人の目を気にしつつ、トレイを静かに地面に置いて彼に駆け寄ると、その肩に手を載せる。

「ねえ、どうしてここに? あなたは湊くん……なのよね? あのあと、大丈夫だったの? 怪我はしてない?」

「敵の僕に質問ばかりだね」

「あなたを敵だなんて思えないのよ。それにね、あなた以外のレジスタンスの人にも会って言葉を交わして、やっぱり完全に善悪を線引きすることはできないって、そう思ったの」

 やり方は間違っているけれど、国王の目が届かない場所にいる彼らのような孤児たちが権力に利用されないように、その地を収める領主の適正の見直しや法の整備などをするべきだった。罪を犯す前に国で彼らを守らなければならなかったはずだ。

 話している途中だというのに考え込んでいると、クワルトが私の首に腕を回して抱き着いてくる。

「なんとなく、若菜お姉さんならそう言う気がしてたよ」

「その呼び方……やっぱり、あなたは湊くんよね?」

「……うん。シェイド兄さんにも、誰にも言わないでね」

 追求すれば、クワルトはあっさり自分が湊くんだと認めた。私はその頬に手を伸ばして、涙を目に滲ませる。

「そう……やっぱりあなたが……湊くん。あなたに会えて、本当に嬉しい」

「若菜お姉さん……僕も嬉しい。まさか、あなたがこの世界に来ているとは思わなかった。そうか、神官様が言っていたのはあなたのことだったんだね」

 ひとりで腑に落ちているクワルトに「神官様?」と私は聞き返す。

「エヴィテオールの王族は生まれたときに町の由緒ある大聖堂で神官から神託を賜るんだけど、オルカだった僕はこの国に希望を運ぶ者って言われてたんだ」

「そういうしきたりがエヴィテオールにはあるのね」

「うん。この地で死んだ僕が日本に転生し、あなたをこの地に送り、また祖国で生まれ変わった。僕はきっと、あなたという希望をこの世界に連れてくるために生まれたんだね」

 クワルトは嬉しそうに顔を綻ばせて、急に「はい、これ」と紫色の小さな花束を差し出してくる。

「今日は野暮用があって、ついでに顔を見に来ただけなんだ。これ、よかったらもらって」

「野暮用って……レジスタンスの?」

 花束を受け取りながら、また危険に首を突っ込んでいるのではないかと心配になっているとクワルトの顔は真剣なものに変わる。

「若菜お姉さん、レジスタンスが革命を諦めることはないよ。このエヴィテオールにも、確実にその手を伸ばす」

「止める方法はないの?」

「僕は……迷ってるんだ。間違ってるってわかってても、プリーモを裏切れない。だから、僕はプリーモのそばにいて、あなたたちと争わずに済むように頑張ろうと思ってる」

 迷いを口にしながら、彼は瞳に強い意志を飼っている。私はクワルトからもらった花束から、ひとつだけ花を抜き取り彼に渡した。

「忘れないで、私がいること。困ったことがあったら、必ずあなたの力になる」

 日本で出会ったときは看取ることしかできなかったけれど、今度は死なせない。この世界で一緒に生きていきたいから。

 その気持ちが伝わったのか、クワルトは「ありがとう」とはにかんで花を受け取ると、仲間の元へ帰って行った。

 クワルトが去っていった方へ視線を向けていると、背後から肩を叩かれた。私は「きゃっ」と小さな悲鳴をあげて、勢いよく振り返る。
 そこには片手を上げて、にっと笑うアージェがいた。

「若菜さん、今誰かといた?」

「あ……うん、知り合いと会ってた」

 動揺を悟られないように笑顔を繕って答えたのだが、アージェは「ふうん」と意味深に相槌を打つ。

「知り合い、ね。若菜さん、また無茶してない?」

「大丈夫。もし本当に危険な目に遭ってたら、あなたに相談してるわ」

 クワルトはレジスタンスの一員だし、迂闊に話したら立場が悪くなるかもしれないから、話さないほうがいいわよね。
 長話しすぎてしまったことを反省していると、廊下の先からシェイドが走ってくるのが見えた。

「ふたりとも無事だな」

「シェイド、どうしてここに?」

「今後の若菜の警護についてアージェと話していたんだが、アージェが妙な気配がすると執務室を飛び出してな。あとを追ってきたんだ」

 それって、きっとクワルトのことよね。打ち明けるわけにもいかないし、困ったわ。
 ハラハラしながらアージェのほうを向くと、当人は後頭部に手をあてて「あー……」と視線を彷徨わせながら貼り付けた笑顔を浮かべる。

「俺の勘違いでした、すんません」

 私が話したくないのをアージェは察したのだろう。一緒になって誤魔化そうとしてくれたのだが、シェイドは腕組みをしてため息をついた。

「俺にその嘘が通用すると思っているのか。まあいい、本当に危険が及ぶ事態なら、お前は隠さない性分だろ」

「あんたを斬った隠密をそこまで信頼してくれてるなんて、驚きだな」

「俺への信頼は別にして、お前は若菜に対しては心から慕っているだろう。見ていれば、それくらいわかる」

 即答されたアージェは若干笑みを引き攣らせて、王子を指差しながら私を見る。

「若菜さん、王子に記憶がないなんて嘘じゃない? 鋭いし、勘も鈍ってないしね」

「私もときどき、そう思うわ」

 仲間との過去を聞いたからというのもあるかもしれないが、仲間への話し方も以前と変わらない。すぐに人の本質を捉えるところは王子ゆえの素質だろう。

「王子としてのシェイドはその骨肉に刻まれてるんだと思う。ずっとその役目と向き合って生きてきたんだもの、簡単には消えないんでしょう」

「あなたへの思いも消えなかったしな」

 微塵も照れずに言い放つシェイドに、アージェは突っ込むのも放棄して「はいはい」と星を見上げ始めてしまった。
 それを気にも留めずに、シェイドは私の手元を覗き込む。