城が落ちて二週間が経った。
 国王が洗脳されたあと、統治経験のないレジスタンス幹部が政治を行った結果、アストリア王国は財政管理から法の秩序の事実上の崩壊、医療の体制に綻びが出ていた。

シェイドは自国の復興支援業務をアストリアに滞在しながら行いつつ、ローズさんと共に期間限定でマオラ王女の補佐についている。ゆくゆくは女王として王政を指揮できるように指導を兼ねているのだとか。

 私は護衛役のアージェとダガロフさんと一緒に医療面で不充足している設備や人材育成に関わり、この国の復興に携わっている。国の警備面で尽力しているアスナさんや月光十字軍の兵の皆さんもときどき手伝いに来てくれていた。

「遠方から流れてきた患者で、城下町の施療院も溢れ返ってきましたね」

 アストリア国の城下町にある施療院を回る途中、馬車の中で各施療院ごとの患者数が記されている書類に目を通していたダガロフさんが難しい顔で呟いた。

 理由は人員不足のために復興が国の隅々まで満遍なく行えないことだ。シェイドの案では国の首都である城下町の機能を整えてから、外の町に向けて支援を行う予定でいる。ここから遠い町は後回しにされるということだ。

「城下町の施療院なら薬も手に入るし、若菜さんのおかげで動ける看護師も増えたから、医療が充実した場所に患者が集まるのは当然だよ」

 アージェはそう言いながら、ダガロフさんの隣でリンゴにかじりついている。
 隠密の仕事が長かったせいか、彼は城で出されたフルコースの食事にはあまり手をつけず、こうして手軽に食べられる干し肉やチーズ、水分の多すぎない果物をよく口にした。

「若いのに、今後の食生活が心配だわ」

 つい心の声をこぼした私と同じ気持ちだったらしいダガロフさんは、リンゴに歯を立てたアージェを心配そうに見やる。

「そうだぞ、アージェ。お前は動いている割に線が細すぎる。朝、昼、晩、ちゃんと三食とっているのか?」

 私たちの視線を一身に受けたアージェは咀嚼したリンゴを飲み込むと、苦い顔をした。

「嫌だな、ふたりとも……俺のお父さんとお母さんみたいなこと言わないでよ」

 衝撃的なアージェの返答に、私とダガロフさんの「お父さん!?」「お母さん!?」という声が見事に重なる。そんなに貫禄があるだろうか、と軽くショックを受けている私たちにアージェは続ける。

「……っていうか、分厚い筋肉の鎧を纏ってるダガロフ団長と比べたら誰だって線が細くなるって」

「だがな、俺が二十代の頃なんかもっと肉付きがあったぞ」

「城の豪勢な食事を毎日食べてたら、余分な肉がつきすぎちゃうし、気づいたら肉団子だよ。俺、若菜さんが看病してくれてたときのお粥とか野菜スープのほうが好きなんだよね」

 肩を怪我してすぐの頃は酷い出血で、貧血気味だった彼のために鉄分の豊富な食材でお粥を作ったことがあった。気に入ってもらえたのは嬉しいのだが、もう病人ではないので果物やスープだけではなく食事はしっかりとってほしい。

 そんな会話をしているうちに、私たちは城下町の外れにある施療院へやってくる。

「若菜さん、こんにちは」

 馬車を降りると、大きなお腹を手で押さえながらひとりの女性が近づいてきた。

 彼女はナンシーといって、今年で二十三歳になる妊娠三十九週の妊婦だ。

 いつ生まれてもおかしくないため、私は今日から彼女のいる施療院に泊まり込む。もっと早く来たかったのだが、別の施療院で急患が出て遅くなってしまったのだ。

「ナンシー、予定日まであと一週間ね」

 彼女のお腹に触れると胎動が伝わってきて、新しい命を手のひらに感じた。ひとつの身体にふたつの命が宿る神秘に胸を高鳴らせていると――。

「はい……」

 沈んだ声が返ってきて、私は彼女の顔を覗き込む。ナンシーは表情が暗く、傍目から見ても思い詰めている。

 私たちの様子を一歩下がったところで見守っていたダガロフさんやアージェも理由に見当がつかないのか、肩をすくめた。
 私は視線を彼女に戻すと、その背に手を添える。

「ナンシー、もしかして……ううん、当然よね。お産が怖い?」

「……はい。この国では出産してすぐに亡くなる母親も多いし、子供ができるのは嬉しいけど、命がけだと思うと……」

 言い淀んだナンシーは目を伏せた。
 私はお産経験はないし、母親になったこともないので親になる彼女たちの不安を全て理解するのは難しい。それでも、母親であるナンシーとこれから誕生する赤ん坊の力になりたい気持ちは誰よりもある。

「こんな言葉で、あなたの不安を和らげられるかはわからないけど……。私も一緒に頑張るから、怖いとか苦しいとか、そういう気持ちを溜め込まないでね」

「若菜さん……はい、ありがとうございます。でも、若菜さんの顔を見るとほっとします。ほら、女性の看護師っていないから、いろいろ言いにくいことも相談できるし」

 日本では看護師といえば女性のほうが多いけれど、この世界では逆だ。むしろ女性が職業に就いていること自体が珍しい。

 女性が国の長に君臨する女王制度がある国は他にもあるらしいのだが圧倒的に少ないし、民に至っては夫の商業の手伝いや家庭に入る者が多い。女性は家庭を守るべきという考え方が強いために医療職や政務官などの専門職に就くことは、ほぼ不可能だ。

「お産は肌を見せる部分も多いし、女性がいいって妊婦さんは多いわよね……」

 看護師も女性がいたっていいはずだ。日本にもある助産師の職を作って、女性の仕事として確立できないだろうか。

 今度、シェイドに会ったら相談してみよう。
 そう考えていたとき、施療院の中から男性看護師が飛び出してくる。

「よかったっ、若菜さんいらしてましたか!」

「あら、そんなに慌ててどうしたの?」

 血相を変えて私の前にやってきた男性看護師は胸に手をあてて、大きく深呼吸をする。何度かそれを繰り返して、乱れた呼吸をなんとか整えた彼は助けを乞うように私の腕に縋りついた。

「実は優秀女性看護師である若菜さんがナンシーさんのお産介助につく噂が広がって、アストリア中の妊婦がこの施療院に集まって来ている状態でして……っ」

「え、そうだったの?」

 この施療院に来たのは今から一週間前のことだ。その短い間にこの施療院には噂を聞きつけた妊婦が大勢、押しかけてきているらしい。

 お産は足を開かなければならないので羞恥心が伴う。女性からしたら同姓に介助してほしいと思うのは当然なのかもしれない。