翌日、クワルトと共に奇病にかかったアストリア王国の民を治療するため、私はローズさんを置いて城下町の寂びれた施療院にやってきた。

 本当なら監視役のレジスタンスの下っ端たちもついてくるはずだったのだが、クワルトがうまく言いくるめて置いてくることに成功したらしい。私としてはそのほうが気を張らずに済むので助かるのだけれど、クワルトの立場が危うくなるのではないかとそれだけが気がかりだった。

 不安は消えないが施療院の中へ足を踏み入れると、溢れ返るほどの患者がいた。べッドの数が足りないために、心もとない薄い布を敷いた床に転がされている者までいる。

「こんにちは、看護師の若菜です」

 廊下に座り込んでいる患者に話しかけてみるが、看護師である私を見ても彼らはなんの希望もその瞳に宿さず、ただひたすらに両手を合わせて「このミアスマをお祓いください」と神に祈りを捧げている。

 私は惨状から目を逸らせないまま、隣に立つクワルトに尋ねた。

「ここに動ける医師や看護師はいるの?」

「この国で唯一機能していたのがこの施療院だったんだけど、ここにいた医師や看護師も治療中に奇病に蝕まれてしまったんだよ」

 それで、感染を止める者は完全にいなくなってしまったというわけね。
 この感染をひとりで収束に向かわせるには骨が折れるどころの話ではないが、私がやらなければ苦しむ人は増えるばかりなのだ。

「やれるかじゃなくて、やるのよ」

 自分に活を入れた私はクワルトを外に待たせて、施療院の一室で看護師の制服に着替える。さすがにウェディングドレスでは動き回れないので、ここで働いていた看護師のものを借りた。

 うん、やっぱり制服を着ると身が引き締まるわね。

 日本にいた頃から、私にとってナース服はスイッチだった。失敗は許されない命を相手にした仕事なので、気が緩まないように制服を身に着けたら私生活とは頭を切り替えるようにしていたのを思い出す。

 ここの制服もエヴィテオールのものと同じで、スモックワンピースにナースキャップと動きやすいので助かった。

「待たせてごめんなさい、さっそくだけど診察をしていきましょう」

 医師がいない以上、私が看護師の知識でできるだけなんの病気が疑われるかを判断しなければならない。最初の治療のアプローチを決める大事な診察では早期治療が必要な進行の早い病気だった場合、見落としや間違いは絶対に許されない。

「僕も手伝えることがあるなら、なんでもするよ」

「ありがとう、心強いわ。それじゃあ、行きましょうか」

 責任感が肩にのしかかってきて重いけれど、クワルトに励まされながら私はいちばん端の病室に足を踏み入れた。

「初めまして、私は看護師の若菜です。あなたは?」

 私はまず、壁に寄りかかるようにして床に座り込んでいる女性の前に腰を下ろし、声をかけた。
 目を閉じていた女性はゆるゆると瞼を持ち上げ、怠そうに顔を上げると弱々しく答える。

「……エミ、リ……ドーソン」

 彼女――エミリ・ドーソンさんは雰囲気は二十代半ばくらいなのだが、手の皮膚にしわが寄り、目が落ち込んで頬が窪んでいる。まるで老人のようだった。

「体温を計るわね」

 私は体温計を彼女の脇に挟もうとしてその腕を掴むと、わずかに震えているのがわかった。それに引っかかりながらも体温計の値を確認すると、三十四度と人の平熱に比べて格段に低い。

「体温の低下や筋肉の痙攣……手のしわや老人のような顔の変化は「洗濯婦の手」「コレラ顔貌」っていう脱水の症状だわ。エミリさん、あなた下痢はしている?」

 エミリさんは答えるのも億劫なのか、首を縦に振って目を閉じてしまう。

「辛いのにごめんなさいね、腹痛はある?」

「ない、で……す」

 かすれた声、腹痛のない下痢。脱水の場合は体温を下げるための汗が出なくなり、普通は身体に熱がこもるため高熱になる。

 けれど、エミリさんはむしろ体温が低い。これから考えられる病が頭の中に形になりつつあるのを自覚しながら、私はエミリさんに「ありがとう」と声をかけて立ち上がった。
 一旦、病室を出ようとした私のあとをクワルトが追いかけてくる。

「なにかわかったの?」

「私の予想があっているかどうか、答え合わせに行くわ。クワルト、施療院のトイレってどこかしら」

 私はクワルトの案内で施療院のトイレにやってくると、米のとぎ汁のような白い便が便器に付着しているのを見て確信した。

「きっとここにいる人たちは一日に何十回も下痢に襲われて、脱水になってしまったのね。
そして、その症状をきたすのは……コレラだわ」

 コレラの死因は大量の下痢と嘔吐による脱水。だから、身体から失われた水分と心臓や神経の働きを維持する電解質の補給が必要になる。

「清潔な水と砂糖、それから食塩とレモン。あとは薬を作るための黄檗(オウバク)の樹皮がほしいわ」

「わかった、すぐに準備するよ」

 頼んだものを揃えにクワルトが施療院を出ている間、私は患者の症状を聴取しつつ、院内にある物品やベッドの数などを確認していた。

 そうして三時間が経過し、バタバタと廊下を走って施療院の入り口の前を通り過ぎようとしたとき、外に不審な男の人がうろうろと歩き回っているのに気づく。その人と目が合うと、花束のようなものを背中に隠して走り去っていった。

 なんだったのかしら、今の……。
 不思議に思っていると、一台の幌馬車が施療院の前に停まった。そこから出てきたのは、笑顔を浮かべたクワルトだった。

「足りるかはわからないけど、町の人から集めてきたよ。この周辺の家を回ったら、ミアスマに苦しんでる家族がこの施療院にいるって人が多くて、力になってくれたんだ」

「幌馬車で来るなんて、随分集められたのね。クワルトにも、それから町の人にも感謝しなくっちゃ。さっそく中に運び入れましょう」

 私たちは荷物を中に入れると調剤する台に材料を並べて、さっそく脱水患者に飲ませる経口補水液を作る。下痢で失われた水分や電解質の補給をするためのものだ。