年中暖かくて過ごしやすく、草木がよく育つ大国エヴィテオール。この地では王位争いで建物も人も傷つき、復興のさなかであるせいか、町同士の小競り合いが絶えない。

「アイドナとサバルドの町境で、町民同士の争いが起こりました。負傷者も多く、医師や看護師の派遣も必要になりそうとのことです!」

 伝令役の兵から報告を受けた私――水瀬若菜は、アイドナの町に向かった医師のマルク・クラスファーと手分けしてサバルドの町で手当てをしていた。

「痛いよお~、うわあああんっ」

 戦火に包まれた町の中、私は泣いている子供を見つけて駆け寄る。
 身に着けている白いスモックワンピースに月光十字軍の刺繍が施された紺色のローブが地面について汚れるのも構わず、腰を落とした。

「大丈夫、もう大丈夫だからね」

 安心させるように声をかければ、男の子は看護師の証である私のナースキャップを見上げて、「天使様……」と呟いた。

 それを耳にした瞬間、この世界に来たばかりのことを思い出してくすっと笑ってしまう。

 日本の終末期病棟で看護師として働いていた私は今、トリップしてきたこの異世界で王宮看護師長として生きている。

 元いた世界に残してきた家族のこと、関わった患者たちのことはもちろん忘れられないし大切だけれど、私は選んだのだ。

 この国の第二王子、シェイド・エヴィテオールという大事な婚約者と、共に戦場を駆け抜けた月光十字軍や出会った異世界の人たちと共に生きることを。

「若菜さん、こちらの負傷者の治療はあらかた終わりました! こちら側は火災のせいで火傷を負った重症患者が多いですね、手伝います」

 駆け寄ってきたのは看護師の同僚であるオギ・リーマス。中途半端に長い赤茶色の髪を後ろで束ねていて、頬のそばかすが印象的な十八歳の青年だ。

「ありがとう、オギ。月光十字軍の皆さんが消火作業をしてくれてるから、それまで頑張りましょう」

 王宮騎士団の中でも精鋭部隊として差別化される月光十字軍は王子の最も信頼する騎士隊長と兵で構成されているため、王子の行くところには必ずと言って同行している。

 彼らが町同士のいさかいの鎮圧と消火作業をしている間、私たち治療班は救助と手当てに奮闘していた。

 やがて火の手もおさまり、焼け崩れた家々を回りながら、負傷者がいないかを確認していると、ふと視線を感じて顔を上げる。
 町を囲む森の木々の隙間から、癖のある銀色の髪にサファイアの瞳をした二十歳くらいの青年がこちらの様子を窺っていた。

「あれは……」

 ほとんど無意識に黒いローブに身を包んだ彼の方へ足が向く。
 彼も近づく私を穴が開きそうになるほど凝視していて、正対してもなお言葉なく見つめ合っていた。

 柔らかな雰囲気と、どこかあどけなさの残る綺麗な顔立ち。知らない人のはずなのに、懐かしいだなんて思うのはなぜだろう。

「どこかで会ったこと、ありませんか?」

 日本から来た私に異世界の知り合いなんているはずないのに、勝手に言葉が口をつく。

「僕も、そう思って……ううっ」

 急に頭を押さえた彼はその場にしゃがみ込んでしまう。私は慌ててその背に手を添えると顔を覗き込んだ。

「大丈夫? 向こうに救護幕舎があるの、そこで休みましょう」

「い、いえ……僕は平気……だから」

 そうは言うけれど、彼の額には玉のような汗が浮かんでいる。頭が痛むのか、眉間にしわを寄せて、ときどき小さくうめいていた。

「なにを言ってるの。顔色だってよくないし、体調が悪いことくらい私は看護師だからわかるのよ」

「看護師……若菜……」

 初めて会った彼の口から自分の名前が飛び出すとは思っていなかったので、私は「え?」と目を瞬かせる。

「なんで、私の名前を?」

「――そう、か……ここは、あなたは……そうだったのか」

 彼は突然、なにかに納得したような口ぶりで、私の顔をまじまじと眺める。喜びと絶望といった真反対の感情が複雑に混じって、言葉では形容しがたい表情をして青ざめていた。

「僕は……僕は、なんてことを……!」

 頭を抱えながら、彼はふらふらと立ち上がる。危なっかしくて見ていられなかった私は、その身体を支えようと手を伸ばしたのだが、後ずさった彼に避けられてしまった。

「ごめん、さようなら」

 それだけ言い残して彼は背を向けると、あっという間に森の奥へ走り去っていく。

「あっ、待って!」

 その後を追いかけようとしたとき、背後から「若菜?」と名前を呼ばれて振り返る。

 そこには持ち場を離れた私を心配して探しに来てくれたのか、月光十字軍第三部隊の騎士隊長のひとりであるローズさんが立っていた。

 このように殺伐とした戦場の中でも、彼の瞳とお揃いのワインレッドのウェーブがかった長髪は艶やかさを失っていない。

「あんた、こんなところでなにしてるの。一応、王子の婚約者なんだから、ひとりでふらふらするんじゃないわよ」

 ローズさんは白軍服の肩の鎧から垂れ下がる赤色のマントをはためかせて、齢三十三になる彼は呆れ混じりのため息をついた。

 もう口調からおわかりだろうけれど、彼はお菓子や料理作りが趣味でドレスや装飾品が大好きなオネエだ。自称ローズと名乗っている彼の本名は私も他の月光十字軍の皆さんも知らない。兵たちの間では美にうるさい彼のことだから、きっとごつい名前で公表したくないのだろうという噂もある。

「ローズさん、すみません。どうしても気になって……」

 あの子の体調が気がかりだわ。それに、もうひとつ気になることがある。どうして私、あの子に懐かしさなんて感じたのかしら。

 謎の青年が姿を消した森の奥を名残惜しく眺めていると、ローズさんは腰に手をあてて私の視界を遮るように立つ。

「ふうん……なんでもいいけど、別行動をとるときは誰かに言ってからにしなさいよね。心配するじゃない」

「はい、探しに来てくれてありがとうございます」

「まったくもう……ん?」

 まだ文句が言い足りなそうだった彼は足元を見てふいに腰を屈めると、地面に落ちていたなにかを拾い上げた。

 ローズさんの手にはバラの紋章のブローチがあった。それを眉を顰めながら難しい顔で観察していた彼は重苦しく呟く。

「あんた、やっかいな連中に目をつけられたもしれないわね」

 意味深な発言を残して、ローズさんは「さっさと戻るわよ」と救護幕舎の方へ歩き出す。その背を見つめながら、私はさっきの青年やローズさんの言葉に漠然とした不安を抱くのだった。