こんなに幸せでいいのだろうか。
アルマドと朝のキスを交わしたエミヤは、ぼんやりとそう考えていた。
想いが通じて以来、自分たちの行く末を考えるようになった。
アルマドが生きているだけでいいと思ったのは本音だ。
けれど、アルマドのコップから溢れるほどの愛に満たされると、思わず欲も出てきてしまう。
そもそも、アルマドが素顔を見せた途端言いよって来た都合のよい貴族令嬢に妬いてしまうくらいには、エミヤの愛は激しいほうだ。
けれど、いつも先を考えようとして、〝結婚〟まで辿り着けるのかという不安にぶつかった。
(一般庶民同然の私が、アシドニアの王と結婚?)
現実味がないにも程があった。
妹達の持参金にすら困るような人間が、美しく賢いアルマドの隣に立てるのか?
考えだしたらきりがない。
アルマドの愛を疑っているわけでもない。
けれどエミヤは、知っている。
現実はそう、甘くはないのだと。
とまあ、そういうようなことを、アルマドには内緒で悶々と悩んできた。
けれど、昨日のアルマドの言葉で、そんな不安は雪空の彼方に消え去ってしまった。
――のは、一瞬だった。


「……アルマドは」
南国で育つという食虫植物を手に、エミヤはエン技師に詰め寄った。
「……今日も都合が悪いらしい」
都合が悪そうな顔をしてそう言ったエン技師に、エミヤは深い溜め息を吐く。
「またですか」
またである。
アルマドと会えなくなって、三日ほど経っていた。
朝起きて口付けをし、見つめて微笑み合ったあの朝は遥か彼方。
たった三日、されど三日。
結ばれたばかりの恋人には、永遠と言ってもいい時間である。
アルマドは、三日前からとても忙しくなってしまった。
貴族令嬢の訪問者が絶えないのである。
父親をぶつけてみたがけんもほろろに追い返され、ならば今度は自ら出向いてきたらしい。
問題はその数と時間だ。
実家のコネを使いに使い、更には正規の手続きに乗っ取って謁見しにくるため、そうそう無碍にできないらしい。
アルマドは王に相応しく、忙しい身だ。
今までだってエミヤのために少しの時間を捻出するために、どれだけ仕事を詰めてやってきたか――これはあとにゴーストから聞いた話なので、エミヤは彼がどれだけ自分のために頑張ってくれていたか知らなかった。
書類仕事だけではない。雪が積もる前に進めなければならない国家事業の視察に行ったり、貿易相手の国と文書でのやり取りをしつつ、役雪で閉ざされる間に必要な国民の食料や生活用品を大臣達と共に計算して輸入量を決めたり、挙げればきりがないほどの仕事がアルマドを待っている。
そんな多忙な中、貴族令嬢との茶会を一日に数件組み込まれてしまったアルマドに、エミヤへと割く時間はなくなってしまった。
勿論アルマドはエミヤに会いに行くためにあの手この手を凝らしているらしいのだが、何故かそれがすべて不発で終わってしまうらしい。
エン技師とゴーストによれば、娘を王妃にしたい貴族たちの陰謀だそうだ。仕事をしろ。
「……今日はどこの令嬢ですか」
「アナンベル嬢だ」
聞き覚えのある名前である。
「あのめすぶため……」
思わず口も悪くなってしまうくらいには、エミヤのフラストレーションは溜まっていた。
アルマドと三日会っていない。
朝のキスも、昼のちょっとした茶会も、夜眠る前に今日あったことをお互いに話す時間も、なくなってしまった。
その時に交わす他愛無い話、やっと見れた素顔を表情を作る様を見ることができないのは、耐えがたいものがある。
城にはエミヤの友達も知り合いもいないので、誰かと会って発散することも叶わない。
エン技師も、さすがにこの状況は可哀想だと思ったのか、アルマドの代わりにちょくちょく顔を出してくれるようになった。
「そういえば、エン技師はこれからどうされるんですか?」
アルマドの幼少期からずっと、彼の鎧のメンテナンスをしてきた彼だが、アルマドはもう鎧を脱いでしまった。
「どうもしねえさ。アルマドが脱いだ鎧の管理もあるしな。あれ一つで上等な家が二つ買えるくらいの代物なんだ。あの美しい姿のまま、後世に残すのも俺の仕事だと思ってる」
エン技師はなんてことないように答えた。今は後継者を育てることに力を入れているらしい。そうして、あの美しくも力強いアルマドの鎧は引き継がれていくのだ。
「エン技師」
エミヤは、エン技師に向き直った。
「アルの鎧を作ってくれて……、アルマドを守ってくれて、ありがとうございます。貴方がいてくれたおかげで、私はアルマドと再び会うことができました。貴方がいてくれてたから、今のアルマドがあります」
まっすぐ彼の目を見て話した後、エミヤは頭を下げた。
何様のつもりだと思われるようなことかもしれない。けれど、どうしても言っておきたかった。
きっと彼がいなければ、今のアルマドは存在しなかった――。
「……俺はな、エミヤ嬢。ずっと悩んでいたんだ。あいつに言われるがまま鎧を造り、身を守るためとはいえ、あいつは鎧に隠れて、人と向き合うことをしなくなった。そうしてあいつは、ずっと孤独のまま死んでいくのかと思っていた。後継ぎなんざ、異母兄のとこから引っ張ってくればどうにもなるからな。……誰とも心を通わせず、素顔を晒すことなく、アルマドという個人を殺して、ただアシドニアの王として生きていくのかと」
いつものいい加減さはなりを潜め、エン技師はエミヤの淹れたコーヒーを飲みながら続けた。
「だから、あんたがあいつの前に現れてくれたとき、俺も救われたんだ」
泣きそうな、はにかみそうな笑顔だった。
この人がこんな顔をするなんて、エミヤは思いもしなかった。
胸に込み上げるものがあり、エン技師を前にエミヤのほうが泣いてしまった。
(アル、貴方は一人なんかじゃなかった――)
その夜、エミヤはアルマドの帰らない部屋で、たくさんのお茶を用意した。
全てアルマドの温室で育てたハーブから作ったエミヤお手製である。冷めても美味しいものを選んでポットに三つ分注いだ。それから、大量のティーカップ。それに手作りのクッキーを数枚ずつ添えて、エミヤは手紙を残して眠りに着いた。
正直、口にしてくれるか解らないし、数が足りるかもわからない。こんなものがお礼かと呆れられるかもしれない。
けれど、何かしないではいられなかった。
『あの時はありがとう』
いつものようにぐっすり眠って起き上がると、それだけ書いておいた手紙と、全て空になったポット、使用されたティーカップだけが残されていた。クッキーも一枚も残っていない。
数が足りなかったのか、多かったが全て飲み干してくれたのかわからないが、エミヤは何もない空間に向かって、笑顔で頭を下げた。
まるで幽霊でも招いた気分だったが、エミヤは〝彼ら〟が実在していることを知っている。