それからは、起きてはアルマドの息を確認し、額に乗せた濡れた布を取り換え、水を飲ませ、汗を拭いた。朝と夜に、〝万能の種〟を煎じた薬を飲ませた。
アルマドは静かに苦しんだ。
ゴーストとエン技師が何度も訪れ、アルマドの顔色を見て、手伝えることは手伝って去っていく。
医者は、途中でがけ崩れに巻き込まれたとかで、まだ城には戻らなかった。
不運なことに、町医者も自身が体調を崩していて、城へ登城させることすらできなかった。
エミヤは、ずっとアルマドの傍を離れなかった。
そうして何度か夜が過ぎ、アルマドの熱も少しだけ下がっていった四日目の夜。
少し顔色のよくなったアルマドを見つめながら、その手を握り、エミヤは何度目かわからない祈りの後、眠りに落ちた。


『エミヤ』
アルマドの声がする。
鎧の下から聞こえる、エミヤが大好きな声だ。
けれど姿を探しても、どこにもいない。
白い靄が立ち込め、自分がどこにいるのかもわからなかった。
『アルマド?』
呼んでみる。
『こっちだ、エミヤ』
返事はあるが、やはり姿はない。
『こっちってどっち?アルマド、どこにいるの?』
足元を、白い靄が通り抜けていく。
アルマドの姿はない。
『アルマド?』
段々怖くなって、エミヤは涙声でその名を呼んだ。
『いやだよ、アルマド。出てきて……』
あんなに大きな鎧を着ているのに、エミヤにはアルマドの姿が見えなかった。
アルマドの己を呼ぶ声が、だんだんと小さくなっていく。
白い靄のどこからか声がするのに、姿はやはり見えない。
探そうと足を踏み出すが、どれだけ走っても靄は晴れず、そもそも自分が走っているのかもわからなかった。
アルマドの声が、聞こえなくなってしまう――。
アルマドが、いなくなってしまう――。

「アルマド!」
自分の寝言で目が覚めたのは初めてかもしれない。
頭が重い。瞼も腫れぼったい。
ベッドに突っ伏して目覚めて、エミヤはずっと泣き続けていた。
アルマドの手を握っていた指は、一晩そのままでいたせいでガチガチに固まっている。
頬に密着するシーツが湿っていて気持ち悪い。けれど、伏せた頭を、上げることができなかった。
泣きすぎて頭痛がするからではない。
恐ろしくて。
アルマドの、青白い顔を見るのが、心底恐ろしくて、顔を上げることができなかった。
握る手は昨日よりずっと温かく感じる。
けれどそれは、エミヤがずっと握っていたからだ。
(顔をあげて、もし、アルマドの目が、もう二度と開かなかったら――)
考えただけで、心臓がぎゅうと小さくなった。
壊れた涙腺がまた涙をもたらして、シーツの海が歪む。
視線の先の、長く鎧に隠されて日焼けしたことのない白く逞しい指が、エミヤの日焼けした指と絡んでいる。
その指を、泣きながらずっと見つめていた。
その手に、鎧を纏っていた指に、ずっと焦がれていた。
(その指に髪を撫でられたら、どれだけ嬉しいか……)
その指が、ゆっくりと身動ぎした。
力なくエミヤの指と絡まっていたそれが、するり、とエミヤの指を撫でる。
それの意味を理解して、エミヤの手は震えた。
手だけではない、全身が、奇妙な高揚にとらわれて、震えた。

「……アルマド」
そして、全身と同じように震える声で、祈るような気持ちで、その名を唱えた。
自分を奮い立たせるように、その名を唱え、その人を求めた。
涙を拭うこともせず上体を起こしたエミヤの視界に、その人は。


「エミヤ」
かさかさの、枯れた声だった。
けれど、それは確かに、その美しい唇から紡がれたものだ。
初めて、エミヤに聞かせてくれる、鎧越しではない、アルマドの声。
アルマドは、眩しそうに水色の瞳を細めた。
美しい水の色だ。命あるものに、生きる力を与える色。
その瞳が、エミヤを見ている。
その瞳を、エミヤは見ていた。
「アルマド」
そう声に出したか定かではなかった。
けれど、胸の奥から吹き出す気持ちは、止められるものではなかった。
頭が沸騰しそうなほど何も考えられない。
それでも、ただただ、うれしい。どうしようもないほどに、うれしい。
それはエミヤの笑顔となり、涙となり、アルマドに伝わった。
「……目が腫れている」
アルマドの、鎧を纏わない指が伸ばされる。
まだ起きることはできないのか、横たわったまま伸ばされたそれに、エミヤは頬を寄せた。
アルマドの大きな手が、エミヤの頬を撫で、ここ数日、ろくに櫛を通さなかった髪を撫でた。
ついさっき願ったことが、もう叶った。
「たくさん泣いたの?」
「君が泣かせたんだよ」
硬い指の腹が、優しく優しく、エミヤの眦を労わった。
「でも、こんなのなんてことない。私が涙を流してアルマドが助かるなら、干からびるまで、いくらでも泣くよ」
そうして言葉にする端から、涙が止まらなくなってしまった。
アルマドが、動いている。喋っている。生きている。
エミヤがアルマドに白湯を含ませると、アルマドはほっと息を吐いた。
「具合は?」
「……良くはないね。けれど、死ぬほどのものじゃないってことは、自分でもわかるよ」
それは、今までずっと様々な毒に冒されてきたアルマドの勘だった。
「皆を呼んでくるね」
それを心底から信用してない顔で、エミヤはゴースト達を呼びに立った。
一晩中椅子に腰かけてベッドに伏していたせいで体がぎくしゃくとしたが、早く二人を呼びたかった。
自分一人ではなく、ゴーストとエン技師にアルマドの姿を見てもらうことで、これが夢ではなく現実なのだと認められそうな気がしたからだ。


「王よ」
ゴーストは、珍しく殊勝な態度でアルマドの前に立った。
「お傍におりながら、御身を守ることができなかったこと、わたくしの首をもって償わせていただきます」
二人を呼んで一通りアルマドが生きながらえたことに全員がほっと息を吐いた頃に、この台詞である。
ぎょっとしたエミヤが、アルマドへ渡すための白湯をテーブルに盛大にこぼした。
「……お前の諫めを無視して毒入りのアップルパイを口にしたのは私だ。お前が首を差し出す必要などない」
「それでは臣下としての誇りが保てません。貴方に殴られ蹴られぼこぼこにされても、あなたを止めるべきでありました」
いつも青白い顔色のゴーストより、今はアルマドのほうが顔色が悪かった。
けれど、アルマドよりもゴーストのほうがよほど消耗して見える。
「貧弱なお前が私に殴られ蹴られすれば、死んでしまうだろうが」
アルマドが呆れたようにそう言った。
確かに、鎧を着たアルマドはゴーストよりはるかに強そうである。
「――私を、お前のような忠臣を自ら手にかけるような愚かな王にするつもりか」
アルマドがそう言い切ると、ゴーストは深く、長く、頭を下げた。
「暫くの執務はお任せを。わたくしのほうですべてこなしておきますので、王はどうか、休養をおとりください」
頭を上げたあとは、いつものゴーストに戻っていた。
アルマドもさして気にする様子もなく、エミヤから受け取った白湯を口にしている。
エミヤは二人のやりとりを眺めながら、その実、アルマドしか目に入っていなかった。
(アルマド、あんな顔して話すんだ……)
背中に分厚いクッションを重ね、なんとか体を起こしているアルマドを、エミヤは穴が開くほど見つめた。
鎧を纏っていたせいで付きまとっていた噂とは程遠い。
短くもその金髪の美しさはわかる。その髪より少しくすんだ睫毛は長く、アルマドの柔らかな瞳に息を飲む程美しい影を作る。鼻筋の通った顔にはシミ一つなく、病み上がり故に頬は少しこけているが、この雪国アシドニアの王に相応しい透き通るような肌をしていた。
鎧を着ていたからか、体つきはがっしりとしている。見ためだけなら、まだ年若いこともあって、王というより騎士のようにも見える。
けれどその瞳に、王としての叡智と矜持が輝いているのも知っている。
エミヤは、初めて見るアルマドの〝生身〟に、完全に見とれていた。
「エミヤ殿、あとを頼みます」
ゴーストに振り向かれ、慌てて首を縦に振る。
「俺もいったん家に戻るかね。養生しろよ、アルマド」
エン技師も大きなあくびをして部屋を出て行ってしまった。
「二人とも、アルマドのことすごく心配してたんだよ。〝根〟の人たちも、皆」
一気に人の気配がなくなって部屋で、エミヤはぽつりと、呟いた。
アルマドは少し微笑みながら、小さく頷く。
わかりきっていることだろうが、どうしても言葉にして、アルマドに伝えておきたかった。
(君は決して、孤独じゃない)


「さてと。まだ油断できないよ、アルマド。体内の毒が完全に消えたわけじゃない。薬を飲んで、きちんと休まないと。体を動かして、残った毒が体に回るのも避けたいし」
アルマドの顔色はだいぶいいが、油断してはならない。
「……エミヤ」
アルマドの背中からクッションを抜きながら、エミヤは無心でいるよう努めた。
下手に意識しては、アルマドに変な態度をとってしまいそうだったからだ。
「ごめんね、〝万能の種〟を勝手に使っちゃって」
「謝る必要なんかないよ。お陰で、僕は生き延びた」
その言い方に、エミヤは違和感を覚えた。
特におかしなところはないのに、何故か、〝生き延びてしまった〟と言ったように聞こえたからだ。
まるでそれを望まないように。
何故自分は生きているのかと、言われたような気持ちになった。
アルマドを見ると、窓の向こうに広がっている空を見ている。
冬の近づく、重く白い雲。
もう少ししたら、その空から雪が舞い落ちてくる。
その視線の先があまりに遠くて、まるでアルマド自身が、ここにいないようだった。