「エミヤ嬢の様子はいかがですか」
幽霊宰相として名をはせるゴーストが、執務をこなすアルマドを前にぼそりと尋ねた。
今日も素晴らしい顔色の悪さである。休養は十分とらせているつもりだが足りないのか、とアルマドに度々心配させる青白さは今日も健在だ。
「報告させているくせに白々しいことを訊くな。そもそもお前、昨日エミヤに会っているだろう」
しらばっくれるゴーストを顔を上げずに一蹴し、アルマドは確認書類に印章を押した。
「温室に通うようになって、とてもお元気になられましたね。一時は衰弱して倒れてしまう状態からよく回復いたしましたと、ゴーストは喜んでいるのです」
無表情でそう言ったゴーストに、アルマドが印章を持っていた指にぎゅっと力を入れた。
「いつまでその話を引っ張るつもりだ。わかっていて放置していたのはお前達にも責がある」
苛立ちを隠しもせず、アルマドは甲冑の向こうからゴーストを睨みつけた。
「王のなさることに口出しなど……」
青白い顔で弱い立場を主張しているが、彼がそんなものなど気にもかけていないとアルマドは知っている。
アルマドの素顔にも、アルマドの王としての権力にも、王であるアルマド自身にも、大して執着も興味も見せず淡々と仕事をこなすだけのこの男だからこそ、アルマドは傍に置いているのである。
「もう十分反省した。私がエミヤを追い詰めたのは事実だからな」
思い出すと、今でも胸が痛い。
人間が、あの明るくて元気なエミヤが、たったあれだけの期間、部屋に閉じ込めていただけであんな風に衰弱してしまうとは思ってもみなかったのだ。食事も運んでいたし、水だって新鮮なものを毎日欠かさず用意した。恐らく国一番高級な寝床だってあったし、暖炉の薪は切らさなかった。
「王は王ですからな。人々の生活をより良いものにするための政策はわかっていても、実際に生きた人間を世話することに関しては、あまりにも無知であったのかと」
要するに、生粋の王であるアルマドには、はなから人の世話など出来るわけもなかったのである。
そもそもの基準が、毒に曝され続け、その毒に免疫をつけるため鍛え抜き、一日中鎧を着ていても不便のない自分なので、エミヤに同条件で元気に過ごせというほうが無理がある。
「恐らく、わたくしどもが監視していたこともあり、王は安心なさっていたのかもしれませんが。しかしそれが、エミヤ嬢の心の負担になっていた可能性もありますな」
その通りであった。
ゴーストや〝根〟が、アルマドが部屋を空けている間の監視役だったのだ。
エミヤの動向を監視しろ、と一言だけ命じていたのだが、それがよくなかったのだとアルマドは死ぬほど後悔した。
彼らは忠実に王からの命を守り、エミヤの体調がどんどん悪化しているにも関わらず、命令の範囲外のそれには触れず、エミヤは怪しい行動を起こしていない、という報告のみをアルマドに上げていた。
すべてわかった上である。
恐らく近いうちエミヤが目に見えて窶れ、アルマドが猛烈に自己嫌悪に陥るのをわかったうえで、わざとエミヤの不調を報告しなかった。
何故か?
「俺が嘆き落ち込む様を見るのは面白いからとお前達が結託していたことには大変遺憾だ。それによってエミヤが倒れるまでに心身衰弱したことにも」
「わたくしも、昨日本物のエミヤ嬢と言葉を交わして、あのように溌溂とした彼女をあんな目に遭わせてしまったこと、胸が痛い限りです」
ゴーストは心にもないことを言うが、甲冑から鋭い視線を受けると黙礼した。
「話の途中でしたな」
しかしすぐさま顔を上げ、何事もなかったかのように振舞うので、アルマドは甲冑の中で半眼になった。
「エミヤ嬢が実体を持って城内に現れたことで、よからぬ噂が出回っているようです」
ゴーストの言葉に、そのことか、とアルマドは溜め息を吐いた。
「知っている。私が種なしの無能だと、下劣な噂を流している馬鹿がいるようだな。俺が女を抱ける人間だと今更に気付いたタヌキどもが、貴族の令嬢達をこぞって捧げる算段とかな」
温室までの行き来とはいえ、今まで実体を持たなかったエミヤが急に現れ、城にはそれなりの衝撃が走った。
あの鎧の王様に寵姫ができた噂は本当だったのかと驚くものと、王が今まで誰も寄せ付けなかった温室に出入りを許されているということは、その寵愛は本物なのだろう、というような他愛無い衝撃だった。
しかしエミヤが姿を現して暫くして、妊娠の兆候が全く見られないという噂が立った。そしてそこから瞬く間に、鎧の王アルマドは寵姫を妊娠させられない不能だという噂が広がったのだ。
そしてその噂の陰で、王は女を抱くことが出来るのかという、驚嘆した者もいたというわけだ。
「発信源は、どうせ兄上のどなたかだろう」
今は王となった権限で、彼らの住居は離れの宮に移動させ、行動範囲が重ならないようにしているが、彼らが王位を欲しているのは変わらない。アルマドの隙を見つけては、陰湿な手で王位から引きずり降ろそうと狙っているのである。
「もみ消すことも可能ですが、いかがなさいますか」
「放っておけ。大した効力もない。忌み嫌われている鎧の王に、不能という不名誉な噂がひとつ加わっただけのこと。貴族の令嬢達の件は、私達が動かなくても、ご令嬢達がうんとは言わないだろう」
そもそも、エミヤが本当にアルマドの寵姫だとしても、妊娠が発覚するにはまだ時期が早い。しかし、噂好きにはそんなことは大した問題ではないのだろう。
城の者は、鎧の王の新しい噂を面白おかしく日々のネタにしたいだけなのだ。
アルマドは本当に気にしていないようで、もう次の政務に取り掛かっている。
この時、ゴーストの言うようにこの場でもみ消してばどれだけよかったか、アルマドはのちに後悔することになる。
再び印章を手に仕事を始めたアルマドに、ゴーストは言いたいことを飲みこんであえて違うことを尋ねた。
「……何故、触れないのです」
脈絡のない言葉だった。
アルマドはその言葉の意味を正確に読み取って、自嘲の笑みを吐く。
「触れたら二度と、帰せなくなるだろう」
銀色の鎧から、溶けた雪が濡らした泥のような、じっとりとした声が響いた。




エミヤがその噂を聞いたのは、本当に偶然だった。
温室からアルマドの部屋への帰り道、履いていたブーツの紐が解けたのを結ぶために、柱の陰に入ったのがいけなかった。
しゃがんで靴ひもを結んでいるエミヤに気付かず、使用人達がぺちゃくちゃとお喋りをしながら歩いてきたのだ。
昨日もここで令嬢達に絡まれた。普段は人気のない回廊で、どうしたことかと思いながら、口紐を結ぶ。
「そういや、王の寵姫を見たかい?」
「ああ、見た目は普通の娘だが、あの王の寝所に侍るんだ。とんだゲテモノ好きだなあ」
げらげらと遠慮のない笑いが聞こえてくる。
(アルマドはゲテモノじゃない)
この時点でエミヤの眉間には皺が刻まれた。
エミヤとてあの甲冑の中は見たことないが、アルマドはそんなものではない。
紳士で優しく、穏やかな人だ。
とはいえ、ここで姿を現して抗議するわけにもいかないので、結び終わった靴紐を整え、エミヤは彼らが去るまで柱の陰に隠れることにした。
「あの噂を聞いたか?」
男達はなおも続ける。
まだあるのか、と思わずうんざりした。
(アルマドの城で働いておきながら、アルマドの悪口を言うなんて)
とはいえ、彼らにとってそれはアルマドに対する悪意でもなんでもなく、同僚たちと話す日常会話の一部なのだろう。
街での雇用関係でもそれはよくあることだ。
そんなことはもちろんエミヤもわかっているが、あのアルマドがそんなふうに言われるのは耐えられなかった。
昨日の今日で、アルマドの悪口を他人から聞かされるなど、気分がいいものではない。
「あの寵姫がなかなか妊娠しないもんだから、王は不能なのかって噂になってるらしいな」
下世話な話題だ。彼らのような者が喜びそうな。
「だから、貴族のお嬢様方を集めて王の閨に侍らせる話が出ているらしい。数打ちゃ当たるってやつかね。羨ましいねえ」
「しかし不能なんだろ?そもそも、あの王に侍りたいご令嬢がいるもんかね」
このときのエミヤの気持ちは到底文字にして表せられるものではなかった。
昨日、普段滅多に人と会わない回廊で、貴族のご令嬢に会った理由――。
(アルマドのために城に集められていたんだ。寵姫の私が、なかなか懐妊しないからって。今まで、そういったことに興味がないと思われていたアルマドを、〝私の存在〟が壊してしまった……)
女性に全く興味のない王ではないのだと、皆にその考えを与えてしまったのだ。
(私は、私は、自分の欲望を優先して、私が大勢の前に現れることで、アルマドが周りからどう思われるか、考えもしなかった……)
ぞっとした。
自分の我儘のせいで、アルマドにとんでもない迷惑をかけることになる。
例えるなら雷に打たれたような、突如底の見えない穴に落ちてしまったかのような――。
「そもそも王は、鎧を着たままあの寵姫を抱くらしいぞ」