どうしてこんなことになったのか、おさらいをしよう。

まず目の前に、煌く鈍色の剣が見える。
それはエミヤを貫こうと切っ先を向けていて、大きな銀色の鎧がその剣を握っている。
中身は恐らく人間である。子供達を怖がらせる童話じゃあるまいし、鎧が勝手に動くはずがない。動いたらこわい。
ではこの鎧の中身は何か?
恐らく我が国、アシドニアの国王であらせられる。
我が国の国王が全身銀鎧に身を包んでいるのは有名な話だが、まさか草木眠るこの時間まで、しかも自身の寝室でまでそのような恰好でいらっしゃるとは思いもしなかった。
蝋燭の灯りに照らされた鎧の威圧感といったら、言葉にできない。
何より向けられている剣先が恐ろしい。着ているのか着ていないのかわからないようなシルクのネグリジェでは、防御力は期待できない。
歯の根が噛み合わずカチカチと震えるだけで、その切っ先を下させるような気の利いた言葉も出てこない。
「貴様は何者だ」
何者もなにも、貴方とは幼馴染だったのだが覚えていないだろうか。
ああでも、無理はない。十を数える前に急に疎遠になってしまったから。
とはいえ、結構仲は良かったと記憶している。忘れられてしまっただろうか。つらい。

「……エミヤ・サロバトフと申します」
捨て身の覚悟で名乗ってみる。
思い出してくれないだろうか。一応、没落貴族とはいえアシドニアでは由緒ある貴族の名前だ。
由緒正しいサロバトフは、祖父の代で事業が失敗してから衰退の一途を辿り、既に名前だけの存在になっている。更には今代、女ばかりが三人産まれ、男が産まれず跡取りには恵まれなかった。両親も数年前に外遊に行ったきりついぞ帰ってこない。金もなければ使用人も跡取りもいない。医者にもかかれず、庭で薬草を育ててお世話になる身である。
妹二人を幸せな結婚に送り出すのが長女としてのせめてもの使命であると、今回このうまい話に乗って今に至る。
うまい話――我がアシドニア国王の子供を産むこと。
持ちかけてきたのは大臣の一人であるアサロ侯爵である。自分が紹介した娘が国王の子を産めば、それ相応のうまい蜜が吸えるという算段なのだろう。
我が国王、アルマド・ロス・アシドニアはある時を境に全身鎧に身を包み、その真の姿を我々に見せなくなった。
囁かれる理由は様々である。
毒液を被って爛れた恐ろしい顔を隠すためだとか、正妃が不美人であったため不細工な容姿を隠すだめだとか。こうして挙げてみるとろくな理由がないが、とにかく誰も素顔を見たことがない。
そんな国王に、国内の貴族令嬢が嫁ぎたがるはずもなく。
先代国王が急逝しての未婚のままの即位であったが、未だに女性の影はない。国王自身も大変消極的な……控えめな性格で、結婚や跡取り問題にはあまり執着していないようである。
そんな状況下で盛り上がるのは欲と贅肉ばかりが肥大した男たちだ。
そんな一人であるアサロ侯爵は、困窮するサロバトフに訪ねてきてこう言った。
『貴方が王の子を身籠ることができたなら――、多額の報奨金を差し上げましょう』
金に喰いついたと言われればそれまでだが、妹たちの結婚のための持参金がどうしても必要だった。
妹たちには内緒で二つ返事で引き受けたあとはもうされるがまま。肌を磨かれ髪を梳かれ、すけすけのネグリジェを着せられて王の寝室のベッドに放り込まれた。
あるのかないのかわからない色気で必死に王を誘惑しなければならないと悶々としていたところ、真横から唐突に伸びてきた甲冑の腕に頭を掴まれ、床に引き倒された。更には腹を足で踏まれつつ剣を差し向けられて今の現状だ。
見た目としては床に磔られたカエルである。嫁ぐ予定もないが、未婚の女子にこれはひどい。
しかも、まさかこんな深夜にまで銀鎧を着込んだ国王に殺されかけるような仕事だとは思ってもみなかった。せめて前金が欲しい。
「……エミヤ?」
兜の頭が問いかけるように小さく傾く。
その仕草、なんだか懐かしい。幼かったあの頃も、彼はそんな風にして、幼いエミヤの話を聞いてくれていた。
「エミヤです。……アル」
そしてここでとどめの一発。幼少期、不敬ながらも子供だからと許されていた、彼の愛称。
これで完璧に思い出してくれるだろう。
薄闇で、目の色さえわからない兜をじっと見上げた。


「……その名で呼ぶ者はもういないと思っていた」
さすがに動揺を隠せなかったのか、アルマドは剣先をゆらゆらと揺らして、やがてぽつりとそう漏らした。
その擦れるような声に、呑気にとどめの一発などと考えていた自分を平手打ちしたくなる。
正妃であるアルマドの母親は、彼が幼いころ亡くなった。そのあとを追うように、国王もアルマドの成人を待たずに死去している。彼の愛称を呼べる者など、とうの昔にいなくなってしまっていたのだ。
「アル」
思わず涙ぐんでしまった。黒髪の愛らしい男の子だった彼は、エミヤと疎遠になってからずっと独りでいたのだろうか。
(私には貧乏ながらも姦しい妹達がいてくれて、賑やかな生活を送ってきたというのに。彼はこの大きな城の中で甲冑に身を包み、誰にも心を開けずに過ごしてきたのだろうか)


感動の再会だ――と油断したエミヤが悪かった。
アルマドが差し向けていた剣を下げたのを見てほっとしたのも束の間、垂らしっぱなしの長い髪を思い切り引っ張られた。
「はるか昔に遠ざけたはずの我が幼馴染殿がなぜ私の寝室にいる。誰の差し金だ」
ぎりぎりと頭皮を引っ張られる痛みとはなんと耐えがたいものか。
妹たちと喧嘩したときも取っ組み合いになるが、髪の毛はやめておこうという暗黙のルールができている。
それをこんな容赦なく強行するとは、エミヤの知っている心優しきアルはどこへいってしまったのか。
「私の命を狙ってきたのか?エミヤなら許されると?」
命は狙ってない。ある意味命が目的だが貴方の命は狙ってない。孕みたいだけです、が言えない。
痛すぎて言葉が出ない。これは尋問には不向きなのではないだろうか。髪の毛を引っ張られるだけで痛みのあまり心臓がどくどくと激しくなってきた。
「答えろ、誰の差し金だ」
(誰だっけ誰だっけ誰だっけ。えええ待ってこれ本当に痛い)
「あ、アサロ侯しゃ、ちょ、いたい!髪だけはやめて!傷んだら高く売れない……っ!」
長い髪は、サロバトフ家の経済難が進退窮まったときのための最終兵器だ。カツラ職人へ売ればそれなりの額になる。そのために髪だけはきちんと手入れをしてきたのに。
これが原因で髪が高く売れなかったらどうしようと、悲しくて泣いた。しかも結構激しめに。
あまりに子供じみた泣き方だったからか、呆気にとられたアルマドの手が緩む。エミヤは痛みから解放され、へろへろと床に崩れ落ちてそのまま芋虫のように丸まってひくひくと泣きじゃくってしまった。
姉の威厳もなにもあったもんじゃない。こんな姿、妹たちには見せられない。
「エミヤ?」
これをやらかしたアルマドまでなんだか心配そうな声で覗き込んできた。動くたびに甲冑同士がこすれてカチャカチャと鳴るのが不思議だ。
「アサロ侯爵が、アルの子供を産めばお金くれるって」
嗚咽の間からなんとか話をするが、伝えやすいよう簡潔化したらなんだか言葉まで子供じみてしまった。
「か、髪は、本当にお金に困ったときのために大事に伸ばしてるの。だから乱暴に引っ張るのはやめて……」
売る売らない以前の問題である。アルマドの警戒心が一気に下がった。
「エミヤ、エミヤ、顔を上げなさい。痛かったね」
指先まで甲冑に覆われている。そんな手に肩をぐっと掴まれて支え起こされた。そのままソファへと誘導されて、ゆっくりと座らされる。
引っ張られた髪はまだじんじんと痛い。涙の滲む目で見慣れない甲冑姿を見つめていると、甲冑姿のアルマドも、無言でじっと見つめてきた。
目が合っているのか合っていないのかもわからないが、なんだか勝手に懐かしさが込み上げてくる。
“痛かったね”
昔、そんな気安い口調で、同じようなことを言われた記憶がある。
アルマドは、黒髪で美しい瞳をした素敵な少年だった。