佳乃、剣淵、伊達。昨日と同じ顔が揃った場は静まり返っていたが、それを打ち破ったのは剣淵だった。

「……チッ、めんどくせーな」

 気が削がれたと、佳乃の耳元につきつけていた手がするりと離れていく。

 解放されて逃げ出す佳乃だったが、昨日と違うのは恐怖心によって体が竦んでいたことだ。教室から走り逃げるような気力は残っておらず、剣淵から逃げるべく数歩ほど階段を下りたところでがくりと体が崩れ落ちた。

 またしても伊達に見られてしまったのだ。呆けていた思考が動き出して状況把握に努めれば、絶望感がこみあげてくる。階段に座り込んで立ち上がれず、ただ泣くだけだった。
 走り去ることができたなら伊達の失望する顔を見なくてもすむのに。剣淵が迫った恐怖が残っていて足が震えている。

「……これ、使って」

 ふわり、と。俯いて涙をこぼす佳乃に近づいたのは甘い香りだった。バニラのように尾をひく甘さと大人びたムスクの香り。それは昨日借りたノートにもしみついていた好きな香り。

 はっとして顔をあげると、伊達が佳乃の顔を覗きこんでいた。ハンカチを差し出す伊達は、普段に戻ったかのように穏やかに微笑んでいる。

「だ、伊達くん……その、」
「三笠さん、泣いてる。このハンカチ使っていいから」

 誤解しないでと伝えたいのにうまく口が回らない。
 おずおずとハンカチを受け取り、涙を拭えば甘い香りが強く香った。まるで伊達に包み込まれているようで、混乱していた頭に響いていく。

「ねえ、剣淵くん」

 伊達は剣淵に向き直った。
 佳乃にかけた言葉よりもきつい語気で、表情もこわばったものに変わる。

「事情はわからないけど、三笠さんを傷つけるのはよくないと思うよ」
「お前には関係ねーよ」
「二人の関係はわからないけど、女の子を泣かせる男はよくないと思うんだ。今日だけじゃない、昨日だってそうだ。君は突然やってきて三笠さんを泣かせた」

 伊達が階段をのぼっていく。そして剣淵に近づくと、その耳に顔を寄せて何かを囁いた。

「君に、…………よ」
「は? お前、いま何を――」

 距離が開いた上にぼそぼそと喋ったため二人の会話は佳乃に聞こえなかったが、眉間にしわを寄せて睨みつけていた剣淵が困惑していることはわかった。あまり表情の変わらない男が、ぽかりと口を開けて呆然としている。
 一体、伊達は何を言ったのだろう。気になりながらも聞けず、佳乃は二人のやりとりを見ていた。

「三笠さん」

 剣淵から視線を外すことなく、伊達が佳乃の名を呼ぶ。

「あとは僕が話しておくから、君は帰った方がいい」
「でも……」
「僕に任せて、ね?」

 せっかく伊達と話せるチャンスなのだ。剣淵とは何の関係もないと説明しておきたいところだが、言葉にこめられた威圧からここに残ると言い辛い。

「伊達くん……ごめん。ハンカチ、今度返すね」

 借りたハンカチを強く握りしめれば伊達に力を貸してもらっている気がして、あれだけ震えていた体に力が戻ってくる。

 剣淵と伊達の会話は気になったが振り返る勇気はなく、そのまま階段を下りていった。