人生最も最悪な日を選ぶとしたら、迷うことなく昨日だと答えるだろう。憂鬱な気持ちを抱えて眠りについたものの、目が覚めても気分が晴れることはなかった。
 朝の身支度をするべく洗面台の前に立ち、鏡に映る自分自身を見る。タヌキと呼ばれた佳乃の垂れ気味な瞳は赤く腫れていた。

 乱入者とのキスの後、佳乃がとった行動は逃げ出すことだった。伊達に見られてしまったのだと思うと胸の奥が切り付けられたように痛んで、どんな顔をしているのか確認してしまえば二度と立ち上がれない気がしたのだ。
 唇が解放された瞬間、乱入者を押しのけて教室を飛び出し――家に帰ってからしばらく泣き続けていたのだ、瞼が腫れてしまうのも仕方のないこと。

 伊達はどう思っているだろう。昨日のことは事故なのだと説明したいのに会うのが怖い。誤解され、軽蔑されてしまったらと想像するだけで、瞳の奥がじわりと熱くなる。

「ねーちゃん。顔洗いたいから早くして」
「あ、ごめん……」

 洗面台の順番待ちをしていたらしい弟に声をかけられて我に返る。どんより暗い表情の佳乃とは逆に、弟は楽しそうに鼻歌を響かせていた。

「……そういえば、」

 鏡に映る制服を見て、ふと思い出す。乱入者は制服を着ていたが、それはこの学校で指定されているものではなかった。

「あの人、誰なんだろ……」

 他校の生徒だとしても近くの学校ではないだろう。あの制服、あの男も見た覚えがない。
 逃げ去ってしまったため、乱入者をまじまじと見ていなかった。覚えている特徴は、伊達よりも背が高いこととアッシュグレーの髪色だけ。

「ひとり言はいいからさ、早く場所空けてよ。遅刻しちゃう」

 なかなか場所を空けようとしない佳乃にしびれを切らした弟が不満そうに呟いた。