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檸檬の黄昏


告白


八月は終わり九月に変わる。

九月下旬はいよいよ禿雅史の講演会があり、茄緒の暮らす街にやってくるのだ。

早朝いつものように茄緒がジョギングの準備をする。

耕平は国内だが出張で昨日から家を開けており明日、帰ってくる予定だ。

敬司も出張で上海だが夜には戻る予定である。

涼や石田には注意するよう云われたが、まだその時ではないと茄緒は思っていた。

玄関に置いてあるキーホルダーには、あのアンコウストラップが付いている。


ひょっとしたら耕平は外してしまったかもしれないが、それでもいい。


耕平と同じ物を持っているのだと思うと、どこかで繋がっているような気がして安心出来た。

この年齢だと恥ずかしくも思ったが、茄緒にとっては耕平との初めてのデートであり最後のデートだった。

色気のない場所と云われても、かまわない。


茄緒には優しく大切な思い出となったのだ。


それらを噛み締めるとドアを開け、外に出ようとした時だ。


「久しぶりだな、茄緒」


ドアの横から男の声が聴こえた。
男がドア横の壁にもたれている。
茄緒の心臓が激しく音をたてた。
咄嗟にドアを閉めようとしたが、その男はそれを手で遮り、素早くドア内に身を滑らせ玄関内に侵入する。

茄緒を見つめ後ろ手に鍵をかける。

細身で天使のような美しい容貌の男。
東側の玄関から入る光が、偶然にも翼のようにも見える。

そう茄緒の元夫、禿雅史だった。


「……どうして」


禿を見たまま茄緒が後退る。

茄緒にとっては天使ではなく悪魔だ。
玄関の段差に踵が引っ掛かり、座りこんだ。
あまりの突然のことに、それ以上の声も出ない。
大量の冷や汗が顔を伝う。


禿は美貌に楽しそうな笑みを浮かべ茄緒を見つめた。


「サプライズ大成功。逃げるなよ。きみが来ないから、わざわざぼくが会いに来てあげたのに」


講演会は来週のはずだ。

それになぜ、茄緒の居場所がわかったのか。
茄緒の疑問を見透かしたように禿は口を開いた。


「ぼくのファンが教えてくれたんだよ。新聞のきみは、ここにいるとね」


禿は茄緒の左上腕を掴む。


「やめて!」
「きみ近頃、よく男といるな。近場の男をたらしこんだのか?」


茄緒の顔が青ざめていく。
この男は、どこまで何を知っているのか。


「調子にのるなよ、茄緒。ぼくから逃げようなんて思ってないだろうな」


禿の口調が冷酷なものへ変わる。

いくら細身で美貌の持ち主といえど、禿は男だ。
茄緒の腕を掴む力に茄緒は逆らえない。
茄緒の美しい顔が苦痛に歪む。



「!!」
「まあいいさ。あの時の傷がある限り、きみをどうこうしようとする男もいないだろうからな」


禿は茄緒の腕を投げるように離す。

茄緒の細い腕に、くっきりと掴まれたアザが出来ている。
腕を抑えてうずくまる。
禿は嬉しそうに茄緒を見下ろした。


「鬱血した程度はすぐ消える。あのときの傷、見せてよ。それを見に来たんだ」


茄緒の体が強張り、無意識に腹部分に手が回る。


「いや……」
「まだ逆らうか。まあそうこないとな、茄緒」


禿は心底楽しむように茄緒を見る。

再び茄緒を力でねじ伏せると、茄緒の両腕を頭の上で片腕で動きを封じる。
もう片手でシャツに手をかけ、めくりあげる。


胸を被う下着が露になり茄緒の肌も露出する。


下着に覆われた胸の下から、生々しい火傷の跡がさらされる。
それは腹部全体と下腹部にまで及んでいた。
目をそむけたくなる酷い火傷跡だった。


「ああ、これだ。あの時のぼくがあげた烙印。こんな風になったんだ」


美貌に上気した恍惚な表情を浮かべ、禿は茄緒の肌を見つめる。


「傷を見るたびに毎日ぼくを思い出すだろう、茄緒。これが君を守っているんだ。でもな」


禿は茄緒の顎を掴む。


「やっぱり顔半分くらい、印つけた方が良かったなと思うんだ。ぼくと釣り合う容姿でも逃げるからね、君は」


強ばる様子をみて、禿はふっと笑う。


「冗談だよ。茄緒は本当にかわいい」


大切な物を愛でる天使の笑顔、美貌。
禿は外見とは真逆の悪魔そのものだった。


「外からは見えない、ぼくだけの印。これがいいんだ。きみに近寄る馬鹿がいても、これで追い払える」


白い指が怯える茄緒の顔を撫で、腹部の火傷の跡に触れた。


「久しぶりに愛し合おうか。やっぱり茄緒じゃないとつまらないんだ」


怯える茄緒を見つめ禿は満足そうに笑い、茄緒の服に手をかける。

茄緒の瞳は光と生気が消えていて言葉なく無抵抗だった。

あきらめている様子だった。



「きみは五年経っても美しい。ぼくには、やはり君がふさわしいな」



禿が茄緒の肌に触れる。

しかしそれ以上は何もしなかった。
放心状態の茄緒を愉しげに、見つめる。



「云っただろう?今日は傷を見に来ただけさ。愛するきみを、こんなところでは抱かない。ああ、これからも、きみがどこへ行こうと見つけ出す。忘れるなよ」



禿は茄緒の手を取り甲にキスすると、満足気に茄緒の家から出て行った。



もう、ここにはいられない。



茄緒はおずおずと肌を隠す。


茄緒は乱れた服のまま膝を抱えた。
身体を震わせ、ひとり嗚咽を漏らす。

朝の爽やかな日射しだけが茄緒を慰めていた。

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