――あなたのせいよ。

 別れ際に彼女がそうささやくのが聞こえたと、郁(いく)は言った。

 私には中学生の甥がいる。

 名前は郁。彼が生まれてからずっと、二人で暮らしてきた。

 郁の感じが変わったのは、中学生になった頃だった。

 彼を一目見て、人は「色っぽい」と言うようになった。

 かわいいとか、格好いいじゃない。見ていて気持ちがざわざわするという。

 それは母親代わりの私には、なんだか複雑な印象だった。

 ひぐらしの鳴く夏の終わり、事件があった。

 停職中だった彼の担任の先生が、自殺未遂をはかった。

 夜に私がリビングで紅茶を飲んでいたら、二階から足音が近づいてきた。

「どうしたの?」

 振り向くと、郁がくまのぬいぐるみを抱えて立っていた。

 郁は一瞬言いよどんで、心細そうに言う。

「ひなちゃん、一緒に寝ていい?」

 私は仕方ないなと苦笑して、うなずく。

「いいよ」

 立ち上がると、私の目の高さは郁の肩先。

 抱っこしていたのは昨日のことのようなのに。子どもの成長は早い。

 郁をもう子ども扱いしない方がいいよ。郁の母は言った。

 あいつはもう男だよ。郁の父も、忠告するように私へ言ったことがある。

 でもねと、私は心の中で二人に言い返した。

 郁は私の前では子どもそのもので、とてもそんな風には思えないよ。

 それに一番悲しいのは、私がそんな態度を取ったら、郁が傷つくことでしょう?

 一緒にベッドに入ると、年季の入ったぬいぐるみと向き合うことになる。

「だいぶ顔が灰色だね。明日洗濯しようか」
「だ、だめだよ」

 郁は慌ててぬいぐるみを引き寄せて、自分の背中に隠す。

「洗濯なんてしたら、ごろちゃん痛いよ。ちゃんと僕が干しておくからやめて」
「はいはい」

 私はぬいぐるみの頭を、郁にするようにぽんぽんと撫でた。

 電気を消してひとごこちつく。

 しばらく二人、黙っていた。

「……ひなちゃん、僕って気持ち悪いのかな」

 私は眉を寄せて振り向く。

 まだ目が慣れていないから、郁の輪郭も見えない。

「僕、先生のこと好きだよ。でも子どもができたら大変だから、断っただけなのに」
「うん。それでよかったんだよ」
「先生は僕に何を見てたんだろう? 色っぽい……って、何?」

 私は郁の難しい質問に考え込む。

 今年三十歳になる私だって、本当のところはわかってない。

「先生も郁のことが好きだったんだよ」

 暗がりをみつめていたら、少し郁の顔が見え始めた。

 すっと目じりまで伸びた切れ長の瞳、繊細な輪郭。今でも赤ん坊の頃の名残がある。

 私が笑うのを待っている目は、私がくすっと笑うと、やわらかくほころぶ。

 私は郁の表情が和らいだのを見届けてから、ぽつぽつと暗がりに話しかける。

「大人はね、好きって言うのが下手なの。違う言葉にしちゃって、相手を傷つけちゃうの」

 きっと郁は理解できる。賢い子なのだから。

「でも郁は傷ついたね。傷つく前に気づいてあげられなくて、ごめんね……」

 視界がにじみかけた。

 私は郁とは逆側に寝返りを打って、目を固くつむった。










 学校側には、だいぶ引き止められた。

「配慮いただいているのはわかりますが、意思を変えるつもりはありません。郁は転校させます」

 私の言葉に、向かい合った二人が一斉に反論する。

「でも、郁君に問題があったわけではないんですから」
「彼にはこの学校に友達もたくさんいますし、この学校で卒業させてあげましょう」

 ついに相手は校長先生と教育委員長。だからこの面談で最後になる。

 私たちを引き止める理由には、たぶん大人特有のいろんな汚い計算もあると思う。

 でもたぶん、それだけでもない。

「郁のこと、大変お世話になりました。ありがとうございます」

 郁がまっすぐな子に育ったのは、先生たちが一生懸命愛情をかけてくれたからと知っている。

「私の判断が頼りなく見えるのも承知しています。年齢も、立場も、少し特殊ですから」
「お母さん」

 隣に座った郁が振り向く。

「頼りなくなんてないよ。僕のことを一番守ってくれてるのはお母さんだよ」

 郁は、学校ではまだ私のことをお母さんと呼ぶ。

 そうした方が周りの反応がいいのも、彼はその年で理解してしまっている。

「僕が転校したいって言ったんです。それなのに、どうして先生たちはお母さんのせいにするんですか」

 私は目を伏せて、泣きそうな気持ちをこらえた。

 私が母親をやっていられるのは、こうやって郁が私をかばってくれるから。

 私は唇をかんで弱い気持ちを振り払うと、書面を前に押し出す。

「転校届が受理されるまで、郁は登校させません。どなたに言われても、変えません」

 子どもが親を成長させるとどこかで聞いた。

 成長したかはわからないけど、少なくとも、私は郁のおかげで泣かなくなった。

 今は郁が傷ついたところに、彼を置いておけないと思う。

「お願いします」

 私は頭を下げてから、ずっと年上の先生たちを見据えた。









 転校してまもなく、郁は登校する時間になるともどすようになった。

 学校を見に行って、理由がわかった。先生も事務職員の方も、若い女性が多い。

 郁は担任の先生とのことがあってから、街で年上の女性とすれ違うだけで青ざめるようになっていた。

「郁。水族館に行こうか」

 私が誘ったときも、郁ははじめ、気乗りがしない様子だった。

 郁は動物が大好きで、特に魚が一番好き。

 だけど水族館には子連れの若いお母さんがいる。

「ちょっと遠いんだけどね。プラネタリウムも見られるんだって」

 プラネタリウムと聞いて、郁の目がきらっと輝く。

 平日に有休を取って、郁と二人、電車を乗り継いで出かけた。

 若い女性を見かけるたび、郁は居心地悪そうに下を向く。

「ほら、郁。紅葉が始まってるよ。きれいだね」

 どうにか顔を上げさせようとする私のことを、郁はどう思っているのだろう。

「うん」

 でも郁は帰りたいと言うこともなく、青ざめたまま、こくっとうなずいただけだった。

 着いたのは山間の小さな町だった。電車から降りると、お年寄りしか町を歩いていない。

 だから水族館も箱庭のようにささやかなもので、私たち以外誰もお客さんはいなかった。

 ここは元々プラネタリウムで、水族館は企画展らしい。

「ひなちゃん、ひなちゃん。みてみて、くらげがいっぱい!」

 それでも郁はうれしかったようで、水槽に手を当ててはしゃぐ。

 うん、そうだねとうなずきながら、青い光を通して郁をみつめる。

 郁はいい子に育ってくれた。純粋で、素直で。

「ひなちゃん?」

 もっとずるい子に育てたなら、彼はもっと生きやすかっただろうにと、思うだけ。

 私はにこっと笑って、首を横に振る。

「そろそろプラネタリウムに行く?」

 階段を上って、私たちは古びたプラネタリウムに入った。

 設備は古いけど、プログラムは新しかった。ここの学芸員さんが作ったのだろう。

 宇宙のはじまり、地球の今、いつかやって来る終わりに包まれる。

 宝石のような満天の星に囲まれて、子どもの頃を思い出していた。

 あの頃、空は今より広くて、私は大人たちに守られていた。

 今は目線が上がって空が近くなったけど、あの頃夢見た大人になれた気がしない。

 どうしたら郁を守れるだろう。十二年前からずっと考え続けている。

 プラネタリウムを見終わって、帰り道でのことだった。

 郁は上機嫌だったけど、ふいに真剣な顔をした。

「流れてた曲、僕、知ってるよ。『Time to say goodbye』っていうんだ」

 さよならの時間。心の中でつぶやいたとき、胸が痛かった。

「僕はあの曲、好きじゃないな。別れたくないなら別れなきゃいいんだ」

 長く伸びた影を踏んで、郁は言う。

「そっか。でも、あれは意外と前向きな歌なんだよ」

 私は目を伏せて、それを教えてくれた人を思い出していた。