「ねぇ、ワーグナーって知ってる?」

唐突に言った君の横顔を青空を背景に眺めながら、私は首を横に振った。



「ならこの曲。知ってる?」

そう言って君はダランと垂らした左手に握っていたスマホを顔の前に持ち上げ、検索し始めた。

ここは屋上。

「あれ?どれだっけ?」

コカコーラの赤いベンチに座った私の両掌には、
温もりの影だけを残した缶コーヒーがあった。

「ああ、これか」

君のスマホからクラシックの音楽が流れ出す。

「聞いたことあるよ。よく見てるYouTuberが使ってる、この曲」

私が言うと、君はすごく嬉しそうに笑った。

「この人、最低でさ。
友達にお金借りても全然返さないし、
友達の妻と浮気するし、」

「うん」

「この人さ、私達のひいひいおじいさんくらいの世代の人なんだって」



「うそ!その絵、もっと昔の人みたいなのに」

「ね、もっと昔だと思うよね」


そりゃ、缶コーヒーが冷えるのも早く感じるわけだ。
なんて私はこっそり思った。


本当は全部知ってても、
あなたが嬉しそうに話す横顔だけで温かい。


時計を見て「時間だ」と立ち上がった後ろすがたをしばらく眺めてから、
私は冷たくなった缶コーヒーを飲み干した。