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春にはなれない僕たちは、星を解かして影をつくる

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「あ、紫藤さん」


いつものように知らないふりして通り過ぎれるかと思いきや、それはできないらしい。
立ち止まって呼ばれた声に振り返ると、池の前に立つ萩谷玲がいた。

新歓から約一ヶ月、長い夏休みが明けて数日。
ジーワジーワとセミが大合唱を繰り広げる季節が過ぎて、太陽の照度がほんの少しだけ柔らかく感じるようになったある日のお昼前。

それまでの習慣だったように、萩谷玲は経済学部にキャンパスに姿を現した。
コンビニで買って来たと思われる食パンをパラパラとちぎって、池の魚に与えている。
本人もお腹が空いていたのか、口をもぐもぐさせながら私の方に笑顔で手を振ってくる。


笑顔まではとっさにつくれなかったが、小さく手を振って合図をすると、萩谷玲は満足げにまた餌やりを再開した。
私はそのまま次の講義室に向かって歩き出した——が。

一緒に歩いていた友人に思い切り腕を引っ張られる。よろけながらも小走りであとを追うと、少し歩いて萩谷玲が視界に入らなくなったところで通路の脇に寄せられ、肩を叩かれた。バシン、となかなかの音がなって、結構痛い。


「ちょっと!」

「こっちのセリフだって、痛いなぁ」

「どういう風の吹き回し?」

「何が?」

「何がって、萩谷玲よ! 萩谷玲!」

「呼ばれたから返事しただけじゃん」

「でも! あの萩谷玲だよ? 朱里が心底苦手に、ふがっ」

「声大きいっ!」


あくまで私の萩谷玲嫌いは周りには隠しているのだ。
そんな大きな声で名前を呼ぶな、という思いを込めて口を塞ぎにかかる。

息苦しくなったのだろう友人は、私の腕を叩いて降参を示す。
手を退けてあげると驚きを隠せない彼女は、目玉が飛び出しそうなくらい目を見開き、心底訳がわからなという顔をした。

無理もない。
逆の立場ならきっと私もそんな態度をとったと思う。

視界に入れるのすら虫唾が走ると嫌がっていた人に対して、突然恰も以前からの知り合いのような振る舞いをしたのだから。
なんだかおかしくて笑ってしまうと友人はますます怪訝そうに睨んできた。


「何笑ってんの」

「ごめん、なんかおかしくて」

「笑い事じゃないよ。どうしちゃったの? 何かあったの?」

「うーん……まあ、あったといえばあった、かな」

「なによ、それは」

「私の見解を改めただけ」

「見解?」

「なんか思ってたのと違うっていうか」

「あんた萩谷のことなんだと思ってたの」

「人間じゃない奴」


友人は失礼にも盛大に吹き出した。
私の発言に笑っているというよりは、同調しているように見えた。


「おかしいこと言った?」

「いや、まあ確かにって思っただけ。なんか人間じゃないような雰囲気醸し出してるもんね、あの懐の広さとか、わけわかんない言動とか」


友人があはははと声を上げて笑うのに、私もつられるように笑った。


私が萩谷玲の声に反応したのは、見解を改めただけ。
狭かった私の視野を、ほんの少し広げて見ただけだ。


あの新歓の夜、さらに何か特別話をしたわけではない。
萩谷玲は隣で炭酸飲料を水のように飲んで、私はスポーツ飲料をゆっくり飲んでいた。
そのあとは手を貸してもらって立たせてもらい、一緒にペンションに戻ってそれぞれの部屋に帰っていった。

それだけのことだったけれど、当初感じていた嫌悪感は潮風と一緒に流されてしまったのか、私の中には一切残ることなく、寧ろあの空間はとても落ち着けた。
自分でも不思議なほどに、萩谷玲が隣にいることで安心感さえ覚えていた。


萩谷玲の辞書にはおそらく「壁」という言葉がない。
人間が誰しも作ってしまう予防線というものを引かない。
周りが萩谷玲に対して抱いている印象が、あの出来事を機に分かった気がした。


萩谷玲とは取り巻く環境の何もかもが違っていたから、普段の生活の中での彼との接点なんてほとんどないに等しかったが、毎週一回、萩谷玲があの池にやってくるときだけが唯一の私たちの人生で交わる場所だった。
それも萩谷玲が私に気づいて「紫藤さん」と声をかけてくれるのに、私が手を振って合図をするだけのものの数秒。しかし、そのやりとりが自分にとってとても特別なものになるまでにそう時間はかからなかった。

私はその一瞬以外でも、無意識のうちにほかの接点を探そうとした。
キャンパスがまるっきり反対の場所だからそうそう見つかりっこないのだが、例えば学食に行ったときだとか、サークルの関係で他学部のキャンパスに足を踏み入れたときだとかに、萩谷玲の姿を探していた。
そしてそう言うふとした時に、萩谷玲を見つけることは多かった。

友達の多い萩谷玲が神出鬼没で、いろんなところに顔を出していたせいだと思うけれど、願うと必ず萩谷玲は現れた。
萩谷玲はそんな私に気づかないことが多く、私の方もわざわざ声をかけることがなかったが、向こうも私に気づいた時には必ず「紫藤さん」と名前を呼んでくれた。


萩谷玲のことが別の意味で気になり出したのは、確かだった。
それが淡い色の、名前を持つものだと言うことに、尤も、私はまだ気づいていなかった。

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